2018年 10月 30日
「稚気」
早朝、山上ともなると、もう「晩秋」の兆しがちらほらします。
でも、先週、足の陰経で学ぶことがあって下半身はほこほこです。
これほど身体が変わり、心まで楽になるものなんですね!
同じ道筋も、日により印象は異なりますが、またひと味感じ方が変わって見えてきます。
そう言えば、登って来る人を見て、
「暗っ」、「重っ」、「硬っ」、「空っ」って思う事がままあります。
勿論、ふつうの登山ではなく、みなさんそれなりに事情や目的があり、真剣です。
でも、どことなく、その人がご自身とも「つながり」や「めぐり」を失っている感じがするのです。
ついこの間まで、私も同様だったんだろうなぁって思いました。
むしろ、物見遊山の観光客の方が活き活きとしているし、
素敵だな~って行者さんを見ると、いつもどこかしら「爽やか」で「明るく」、
いろ~んなものと自然につながっている雰囲気を感じます。
その辺に気づけるまで、私の登拝は「前提作り」と「リセット」だったんでしょうね。
これからやっと本番の様です。
そんな、最近「オムツ離れ」した身が恐縮ですが、
「だだ漏れ」は頂けませんが(笑)、ちょっと「ぬけてる」方がめぐり、つながる気がします(笑)。
まぁ、辛い時に笑うってとても難しくて、
それでも無理し、ひきつって笑うと自分はしんどいし、他人にはホント気持ち悪い(笑)。
時として、がむしゃらも良しですが、振り返ると燃費が悪過ぎ、年を取るほどしんどい。
じゃあどうすればいいんだろう⁉
山での自問自答の末、今は「笑える方向を作って行く」感じです。
そして、最近「稚気」かな?と...。
「稚気」を知ると気功も見え方・感じ方が随分変ります。
緻密に精度を上げていく部分におままごと(子供の様に超リアル真剣な)の部分が関わる絶妙さ。
今、俄然、気功が面白くって!
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バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
2018年 10月 29日
「オムツ離れ」
気づいて初めて「あ、俺素っ裸!」とか「オムツだ!」みたいな気恥ずかしさと
(正に「裸の王様」)
どこかホッとした心持ちに満ち満ちています(笑)。
反省しつつ、何が変わる切っ掛けになったか?と言うと...「脱力」、そして「呼吸」に尽きると思います。
それを誰がどこから感じるか?...まちまちでしょうが、
個人的に印象に残ったことなど。
「上虚下実」と「弛緩」
何に先駆けても上半身(肩・肘・頸他)が抜けていないと「下実」にならないなぁと...。
例えば、肩甲骨や肘が抜け、寄って来ないと、骨盤も寄って来ないし肚へも集中しない。
力が抜け、そこに経路が出来、そこから繋がりやバランスが生じる。
弛緩があって初めて緊張出来て、その緊張が上手く出来ると弛緩が更に広がる。
(「寄せる」んじゃなくって「寄って来る」んだよなぁ~)
呼吸も当然楽になり「ああ、息詰まってたんだな」など...。
上半身の抜けの都度、私は「弛緩」というものを「自覚」したんだと思います。
そこから練習における発想や体感が変わりました。
淀みない流れ
先週、足の陰経が虚して硬くなり、そこだけ油が水を弾く様に孤立していました。
さすがにびっくりして、陰経に対処すると全身が巡り、協調しました。
そして、更に深い所で巡ってない所がまた浮き出て、身体の中に様々な流れを感じます。
その全体の流れを「淀ませない」こと。
「つながり」を意識すること
水の場が好きで、夏、渓谷などに行くとついつい川や滝の中へ。
お行じゃなくって、ただ、水や魚と一体になりたい、戯れたいんです。
すると、ある方曰く「"一体"って想い自体が二元論で、つながりを感じれば元はひとつでしょ」
なんかその時、ズバッと琴線に触れるものがありそのモードに。
以来、山や水などと距離を感じなくなって来ました。
すると「呼吸」とか「脱力」は自分との根源的「つながり」です。
それをまず、己の中で精一杯巡らせる時「小周天」や「内丹功」、「七段階」などになり、
外との繋がりを持ち始めると「大周天」や「外丹功」、「発功法」、「剣術」などに発展、
もっと特別なものになると「遠隔」・「祈祷」になるのかも?
(きちんと繋がりを意識出来れば距離は関係ないのでしょう)
はぁ~「気功」は良く出来ているなぁと思いました。
その点「ヨガ」も良く出来ていて、
最初の最初からその「つながり」を丁寧に「観察」し動くところから始まっています。
その基本も実に簡単そうな所から始まっているのですが、
やってみるとその前提が多くて難しく...
「自己観察」や「気付き」が伴わないとまったく進めない!と知る事になりました。
身体も硬かったですし...でも、私にはそれが良かった。
誤魔化せない身体なので、観察せざるをえませんでした。
どこか「ストレッチ」的イメージも残っていた事で最初は無理して怪我ばっかり。
ようやく、その事態に気づき、良く観察し、
ひとつひとつ「条件を整えて行く」事や「諦めて待つ」事を経験させて貰って、
心の硬さが取れて、自分が変化し、自分とのつながりが見えて来る中、
自分への「安心感」とか「信頼感」へと誘ってくれた気がします。
だから「死体のポーズ」が一番難しく、すべてはそこ...の意味が腑に落ちました。
「寛・緩・軽・窺・沈・活・統」と「呼吸」
今の感覚で「太極拳」からイメージを再編してみると
「寛(くつろぐ)」...緊張のない、余裕のある、のびのびと、ここちよく。
「緩」...体の内部感覚を愉しみながら、川の水がゆったり流れる様に。
「軽」...意識して力の作用を避ける。いい加減ではなく、末端まで心を込めるの意で「軽く」
「窺(うかがう)」...内面的な感覚・欲求・呼吸に深く注意を払う。
「沈」...「軽」に深みを持たせる。ef.「丹」より動かす。
「活」...「緩」を深化させ内的・心理的にも活き活きと。
「統」...調和・統合・バランス。
「気づき」(自分の今の状態・状況が分かって来る)
今秋は寒暖の差が激しく、冷えの患者さんが多かったんですが、
そこと向き合っている中、ホント、ハッとしました。
心身の「冷え性」は自分を見失い、「マヒ」させる...
そして、その事さえ「気づかない」...「気づき」(自覚)はとても大切だなと。
患者さんが自分の何かに「気づかれる」ことで、その様子は大きく変化されます。
なので「このままならない身体」から今の自分やその状況にアプローチして行く。
(ハタヨガの主旨)
どんな方法でも良いから、取り敢えず、自分の少し非日常で、
身体を使い、心も使って、
極論、自分をズタボロまで「小刻みにほぐし」(笑)、自分を「再生」させる。
その再生のキーが「気付き」ではと?
それが「擬死再生」の真意ではと?
(「肝試し」や「我慢大会」ではないと)
やっと「オムツ離れ」した所で、よちよちですが、焦らずやって行きます。
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バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
2018年 10月 24日
「反り研ぎの訳」
しかし、今まで通りのイメージで行くと、
木目に平行な部分は一気に繊維が剥がれ飛んで行き易く、
垂直になるとささくれてもろもろになり、まぁ見るも無残なカタチに(笑)。
それで、一生懸命、仏師さんの手を見るけれど
余りにも無駄が無い動きにさっぱり分からず。
はぁ~不器用だよ~。
するとポツンと「素直に彫り過ぎ」だって...。
「素直で悪い⁉」...なかなか素直になれないひねくれ者は思う。
気分を変える為、他の部分の仕上げや準備に作業を変更。
実は仏像彫刻では仕上げに「ヤスリ」を使いませんし、
小さいものを平らにするのに「鉋(かんな)」もかけません。
ぜ~んぶ、刀で滑らかにして行きます。
集中、でも淡々した心持ちの中、コツコツ仕上げていく事で
作品はヤスリや鉋以上の美しさや強度で仕上げられます。
その作業中、ふと気づく。
「接点を刻々と変えているんだ」
それが微細過ぎて見えなかった訳で、仏師さんのまっすぐは真っ直ぐではない(笑)。
これ多分、仏師さんの言う「素直じゃない」部分。
ただし、「彫ろう!」と言う意識が働くと「当たる拍子」になり、
(「掛けよう」・「切ろう」に似ている気がする~)
木目の様を刻々と感じられなくなりついつい一本調子になる。
世に言う「木の声を聞け!」ってニュアンスで、
これ「素直でないとダメ」な部分。
う~ん、妙だ。
でも、それで途端に彫りとイメージが変わるんだから驚きです。
色々な事に繋がって行くし...ホント妙。
なので、刀の研ぎをこんな風にしました。

「反り」を入れてみたんです。
目的や必要性の違いから来る意識やイメージの差と思いますが、
大工さんや一般の木彫家の研ぎは真っ直ぐ。
それだとパス~ンといっちゃうからただ切れるだけで、精妙な事が出来ないんです。
「ただ切った」...その切り口すら滑らかさが違う。
ふと、吉川英治の「宮本武蔵」の柳生の里でのエピソードを彷彿。
「なぜ、日本刀が素晴らしいのか?」
「なぜ、合気や新陰が他の流派と発想や理合いが違うのか?」って所まで妄想は膨らみ...。
良く見ると、私の師事する仏師さんの刀は反り研ぎをしていて、
即、頂き~って感じでした。
そして、もっぱら「菊座」の練習...。
(光背を縁取る「菊の花びら」の文様)

分かっただけで、そう簡単にはいかない(笑)。
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バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
2018年 10月 23日
「閑古錐」
白着一枚では流石に肌寒く、でも、清々しい。
新たなスタートです。
座骨を寄せ、会陰を意識すると歩みはしっかり、かつ軽やかに、
肩甲骨の落ちは意識と呼吸を広げ、歩く自分や風景を俯瞰する余裕すら感じさせます。
何とも心地良く... 体が変わると心や感覚が変わると言いますががホントですね。
角や険、頑固さ、プライド満載の私です。
でもこの所、その手前で「閑古錐」の言葉が浮かぶのです。
で、抜いたり、俯瞰したり、やり過ごしたり...
そんな事が少しずつ...年齢ですかね。
何となく「当たる拍子」一辺倒であったのが、
「付ける」・「越す」心持ちへと自分が近づきつつあるんでしょうか?
そもそも「当たる」では呼吸も剣もお仕事もねぇ...。
すると、いろ~んなことが急に身近に、親しみがいがある状況に。
(「合気」・「転」・「心意六合」・「三密」...ぜ~んぶひとつながり)
やっぱり、ある意味、年齢かも(笑)。
掛けられて 笑える理合い 合気かな
転は 円きこころに円い息 ころころ転がり 円転自在
ちなみに、「古錐」と縮めてネット検索すると
「台湾語で”可愛い~っ"て意味!」だそうです...。
う~ん、そこまでは~(笑)。
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バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
2018年 10月 22日
「下手になる」
一般的に想像するその意味合いと異なり、
「まだ下手にもなっていないんだから(我武者羅に稽古なさい)」とか、
「早く下手になりなさい」...って使い方です。
「呼吸法」を学んで来た訳ですから、「呼吸」が一番大切。
なのに「せんたりん」にも至れず「とっかかれん」だった私。
ホント「五里霧中」でした。
でも、難しいのは、基礎はシンプルなのに、い~っぱい「前提」がいること。
そこに気づき、どれだけ基礎が大切で、
そこから自分がどれだけ懸け離れているか?...自覚することすら実に難しい。
でもまぁ、当たり前ですが、そこにしかないんです....真理は(呼吸法なんだから)。
「寝太郎の四年」はその為の「静の時期」だった気がします。
人間だれしも「静の時期」ってあるのですよね。
この人凄い!と思う人ほど「静や空白の期間」が必ずある。
それが「静」の場合、
辛いから、どうしてもそこを嘆き悲しんでしまうのだけど(笑)
その時期をどう過ごすのか?が行く道を分ける気がします。
で...今日は昨日の代行を受け、K野先生にその「基礎」の復習、補強をして頂き、
ぜ~んぶ呼吸で繋がっている事を確認させて頂きました。
これからは何が足りないか?どう味付けするか?
どうすれば楽しくなるか?を試行して行きます。
どうにかこうにか「下手」レベルになりました。
(付記)今日の補講
内容説明は不可能なので要点まで。
「パッキン呼吸」と「座骨」、「会陰」、「全身の伸帳」、「脱力」
「パッキン呼吸」と「風船感覚」、「浮沈子」、「立体時計」、「七段階」、「上下前後左右」
「呼吸」と「意識」と「イメージ」の観察、一致。
「パッキン呼吸」と「剣」、「手の内」、「引きと攻めって?」などなど
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バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
2018年 10月 21日
「寝太郎の四年」
「寝太郎」の時期(辛)を色々思い出しながらの代行。
感覚(面授)的な内容なので項目のみ。
「肩肘の抜け」
「肩甲骨と坐骨の関係と会陰」、「上下・前後・左右の寄せと会陰」、
「パッキン呼吸」、「バスタリカ・プラナヤマ」、「バンダ・トラヤ」、「七段階呼吸法」
「プラランビク・スティティ」、「孔雀のポーズ」、「体操・歩法各種」
「独立站樁功」、「平田先生の中心の定め方」、「疾雷刀」
「ムドラー」
項目を名称にすると色々ですが、中身一つ。
太極棒をテーマに...と申し送りがありましたが、それ以外にも繋がることと思います。
私がその辺を感じる様になった時、今まで学んだ分野全てに繋がりました。
まぁ、そこからが始まりなんですが、ぐっと面白味が増した感じです。
きっと、ものの見え方・感じ方が変わることと思います。
さて...もっぺん寝よ(再び潜伏期間へ)。
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バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
2018年 10月 16日
「散歩」
「登拝」...と言う位ですから、人それそれの真摯な想いや切っ掛けがあるハズです。
しかし、その「気負い」や「力み」を通り越した雰囲気があります。
そして、私が息も絶え絶え歩く傍(笑)を
両手を後ろ手に組んで腰に当て、飄々、淡々と歩いて行かれます。
おおよそ15歳は年上の女性の行者?さんとお見受けしていますが、
猛暑であろうと降雪であろうとモードはまったく変わらず、裸足で坂道をスルスルと。
4年経ってもまったく足元にも及びません。
昔、何度か真似し、後ろ手を組み歩いてみたのですが、
体が出来ていない為、姿勢すら維持出来ず、余計にバテバテに。
この域に至る心と体にどれだけの年数が掛かっているのだろう?と想っていました。
そして今秋...何気にその基本姿勢を真似してみて「あ!」
それで昇り降りが出来る様になっていました。
その時、繋がった中身やイメージは「体操のペンギン」や「孔雀のポーズ」、
「プラランビク・スティティ」など+「わさんぼん」の歩法バージョン。
それを「山」でやっている分、一歩一歩を判断し易く、
気分も段々「野鳥」っぽく(憑依?:笑)なって来て、仮称「”野放し"鶏歩」
(街中では目立ち過ぎるので「モーフィアス」っぽくしてます:笑)
姿勢が変わる事で体と心、意識が変わり、
自分のコントロール力や感じる力が開かれて来ている気がします。
まだ入り口に来ただけで「散歩」の域には程遠く、
何がどうなるのか?未知数ですが、愉しみです。
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バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
2018年 10月 12日
「ひそかな愉しみ」

私が良く行くある渓谷の風景です。
夏の暑い日でも気温が5~7℃位は低く、
観光客も少ない場所で、ぼ~っと自分を解放できます。
泳ぐことの大好きな私ですが、
静岡の白糸の滝に行って数か月苦しんだ喘息発作が治ったり、
プールで仕事していると体のバランスが掴み易かったり、
川に浸かった日には深い精神状況まで俯瞰出来る自分が居たり...。
何より「ぼ~っと(ガス抜き・充電)」出来る事が気持ち良く、
どうやら「水の場」が合っているんだなぁと感じています。
そして...この所、観光客や行者が余り知らない「ちょっとした場所」を地元の方に教えて頂きます。
そこは変に肩ひじ張らない絶景...ホントに気持ちが良いです。
その真っ只中で、まだ「おなら」レベルの法螺を吹くなり~(笑)。
なんだか山や木々へ挨拶している気がして来て、
「役行者」様が過ごされたであろう風景や時の流れを想います。
そう言えば、先日、「子持ち鮎」をご馳走になりました。
秋鮎は痩せていて余り美味しくない印象がありましたが、
とっても淡白で、握り飯とぴったりな秋飯となりました。
他、蕎麦や川魚も美味しく、
私のひそかな愉しみです。
春か秋、引き籠りの師匠をお誘いし、何かご馳走したいと思います(笑)。
いや~ホント、自然や人の温もりの中で生きている私です。
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バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
2018年 10月 11日
「ステキな味方」

不器用者が仏師の先生のお蔭でようやくここまで来ました。
ご本体と蓮台が仕上がり、 目下、光背を作成中。
この後、右手に持つ錫杖と左手に持つ宝珠を作って行きます。
当初、もっと「柔和」な感じを目標にしていましたが、
仏師の先生が「貴方の地蔵さんなら"如来っぽい"方が良いよ」と仰り今の形に。
感覚で仰っているので詳しいことは分かりませんが、
出来上がってみると合っているように思っています。
そして、こちらは端材で作った「?様」

木彫用の桧は肌理が細かく彫易いですがとにかく高~い!
ので、制作過程で出て来る端材で練習します。
こちらは参考資料なしに簡単な絵を描き、何となく荒堀したものです。
仏さんと言うより神様?か習合仏?、道祖神?の様なお姿になりました。
どなたなんでしょうね?
いつの間にか、治療室の「野辺の仏さん」みたいな存在になって、
そっと私の仕事や患者さんを見守ってくれている様です。
登拝する様になった事もあり、
(変われば変わるもんだ)
美術的に素晴らしい彫像より、
沢山の人や行者さんに拝まれ、代々、大切にされた村のお堂や野辺の仏さんが好きです。
なので、今後も身近で親しみと頼りがいのある方々を彫って行きたいと思います。
自宅や治療室を見守ってくれる「ステキな味方」です!
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バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
2018年 10月 09日
「変われば変わるもんだ」
「山嫌い」の「田舎嫌い」、自称「インドア(単なる出無精)」が良くもまぁ続きました。
実のところ、その本性は変わっていません。
しかしながら、時を経る毎、気づく毎、経験する毎に
そんな自分と折り合いがつく事もままある様です。
そう言えば、巡る思いや目的もすっかり変わってしまいました。
言葉にするのはかなり無理がありますけれど...ある種「アニミズム(自然崇拝)」かも?
それは学者さんが仰る様なニュアンスではなく、
"自分の命"をベースに感じて頂ければイメージし易いかもしれません。
例えば、太陽・山・川・木など...我々が生きていく上で必要な存在や力、働きが自然に沢山あり、
それらに支えられ、それなしで生きれない自分に気づきます。
便利な都会生活でその感覚や実感が根柢からスポイルされている昨今ですが、
例えば、スマホがなくても生きていけますが、水や酸素、太陽光は⁉
それがある事って「ふつ~じゃない!」し、気づくとそれが「自分の命」とも言えます。
「山や川は私」...言葉にするとちょっと変...でも、そんな当たり前の事実に気づくと
流石に「有難い」と思う自分がいます。
一方、そんな存在の力や働きが大きくなると人智や人力を超え、災害が起こったりします。
自然の力は人の命を生かしも殺しもするんですね。
ホント、お天気相手ではどうしようもなく、
自然を前に「実にちっちゃい自分」を嫌と言うほど思い知らされます。
なので「畏敬」と言う言葉がありますが、そられを「恐れ敬い」、
「礼節を以て対峙し、感謝」する習慣が日本や東洋の精神性のベースにあった気がします。
その延長上に「神」・「精霊」などの概念や宗教が成立した様ですが、
( 日本の神道や修験道などにその原型を伺えるかもしれません )
これは、信じる信じない、宗教などに関係ない「事実」や「真理」だと感じます。
そんな「事実」や「真理」を「恐れ敬い」学ばせて頂く →
色々なことが分かって来る → また頭が下がるの繰り返しです。
昔の人もそう感じられたのか?...東洋のお山には祠が多いです。
(西洋の山観は「魔物の住む場所」や「ピークハント(登頂征服)」の様です)
更にその祠のある場所を通り越すともっと生々しい自然があって...それは言い尽くせません。
すると「そこに何回行った・何日居た」って話が上がるのですが、
私自身は「そこで何を感じ、何を学んで帰ったか?」を大切にしています。
そして!「肚」がそんな存在と自分を繋ぐ「ベース」や「へその緒」になっている ...らしく(笑)。
その辺や感覚が様々が練れて来ると、
「常時接続」・「全自動」・「引きこもり」でいられるらしく(笑)。
そこを目指しつつも、
今しばらくは状況が許す限り出かけます。
ガチンコする必要はなくなりましたが、自然の中は気持ち良いし、
「鳥の巣作り」じゃないけれど、
もう少し、自然から色々学び、巣へ持ち帰るとします。
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バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂