「セルフコントロール」と「ビジョン」

 光永覚道:著「千日回峰行 真実に生きる」より引用・掲載致します↓。

-修行というものがセルフコントロールとつながっている部分があるというお話がありましたが
、回峰行というのはたいへん厳しい行であるというイメージがわれわれにはあります。

 たしかに見た目も厳しいですし、やっているほうも厳しいですけれどもね。

 前に言った「決める」という部分です。決めて行為を行う。その場合には、その結果を受け入
れて前に進んでいく。どなたでもそうだと思うのですが、毎日決めていろいろな行為をしている
わけです。その決めて行為をして、その結果をいろいろなかたちで受けて、それを日々積み重
ねていく。まわりに流されて人生を歩んでゆく場合と違い、決めて行為を行っていく場合に、
自分の人生における最終的な目的というか、自分がこうありたいという目的をもって決めてい
くのと、目的をもたずに決めていくのとでは、得られる結果が全然違ってきます。自分は五年
後にどういう姿になりたい。十年後にどういう姿になりたい。いまこういうふうな自分になり
たい。このように目的があって、毎日の生活のなかで一瞬一瞬判断をして決めて動いていく。
それによって人間ははじめて向上していく。目的があってはじめて修行になるのです。

 人生には困難がつきものです。人間というのは横着な生きものですから、暇があったら休み
たいという気持ちが強い。そのときに、横着したいという気持ちと、いや、この目的に向かっ
て努力を続けなければと、相反する気持ちが常に両方、心の中で葛藤しながら生活している。
これはだれでもあることなのです。ない人間のほうがおかしい。ですから、目的を見失わずに
コツコツと努力を積み重ねていけるというのが、セルフコントロールであると思います。そん
なに難しいことではありません。

 目的があって、自分はこういう姿でありたいというイメージができている方は、セルフコン
トロールができるのです。目的がない人、自分のイメージがない人は、セルフコントロールも
できませんし、この世界で言う修行もかなわない。まず自分がこうありたいというイメージを
自分でつくれるか。つくるということは向上心につながってきます。自分は明日どうありたい
か。五年後にどうありたいか。十年後にどうありたいか。こういうことをしておきたい。ああ
いう姿になりたい。ここまではレベルアップしたい。そういう自分の将来のあるべき姿をイメ
ージできるかどうかです。それが向上心ですし、その目的です。

 人間というのは、常に頑張りたい、休みたいという相反する気持ちをもっていて、常にその
なかで葛藤しながら、ここはここまでやってみよう、ここは休ませてもらおうと、自分のなか
で選択をし、判断をしながら人生を歩んでいるのです。そのときに、目的がはっきりしている
人間ほどセルフコントロールがききますし、脇から見たら修行しているように見えます。目的
を見失った人間は、セルフコントロールとか修行という世界とはまったく関係がなくなってし
まう。欲に流されるとか、怠惰に過ごすということになります。

 目的のない子供たちがふえていると言いました。人生の目的がない。存在意義を感じられな
い。自分のあるべき姿が見えないわけです。小さい頃から自分で考えて行動させてもらえずに
、親の言うままに育ってきた。親の言うことをよく間く子供は良い子だという考え方のもとで
、俗に言われる指示待ち世代というわけです。自分で考えて行動するという意識のない、そう
いう人間は何を言っても始まらない。いましたいことがない子に何がしたいのかと考えさせる
までが大変です。自分がしたいことがあれば、人間なんていうのは、後ろからドンドンお尻を
叩かなくても勝手に歩んでいくのです。こういう大人になりたいでも、こういうふうな生活を
したいでも、何でもかまわないのです。その姿が描けたら人間というのは動きだせるのです。

 ただ、あるべき姿が描けないから動きだせずに怠惰な生活を「かったるい」と言いながら送
っている。目先の、今日したいことしかありません。明日のあるべき姿を思っていません。今
日こうありたいのではなくて、明日どうあるべきかということを思えたら、人生というのは変
われるのです。いまの子どもたちを見ていると、今日何がしたいというイメージだけで動いて
いる子が多いのです。いま何がしたい。いましたいことをいまして何が悪い。その延長線上に
明日があるわけですが、明日自分がどうあるべきかという思いはありません。今日も遊びたい
し、明日も今日と同じように遊びたい。明日のための今日ではないのです。今日の延長線上の
明日である。明日のための今日になったら人生は変わってきます。

 -セルフコントロールというのも、難しい、何か特別のことではなくて、むしろ五年後、十
年後の目的をもって生きるということにつながるのですね。

 目的を見失わずにいくということです。前に述べたように「初心忘るべからず」と「三日坊
主」という話と通じるわけです。人間なんかそんなしっかりしたものではない。三日経ったら
忘れるのですから。一瞬一瞬でそれを繰り返しているのですから、三日も続いたら大したもの
なんですね。三日をいちおうかたちとしてはやっても、中では二回も三回もめているんですか
らね。それを否定することはないと思うんですよ。それと無理して戦ってもむだなエネルギー
を使うだけです。

 それを思い切れない自分を「ああ、情けない。何でできないのか」と思っている。それはむ
だなことです。できなくて当たり前なんですから。それだったら、もう一回やり直そうという
ほうにエネルギーを注いだほうがよっぽどいいのです。できない自分を認めてしまわないと、
そこに工夫が生まれないのです。人生が後ろ向きになってしまって先に進めなくなります。

 -よく陥ってしまうんですけれども。

 自分に与えられた時間というのは山ほどあるわけではありません。実際に目的があって動き
だしたら、人生に与えられた時間というのは足りなくなってきます。六十過ぎても七十過ぎて
も、生き生きして時間が足りないといって懸命に時を過ごしている人がいるでしょう。いっぱ
いしたいことがある人たちです。

 -したいことがないと、何をしていいかわからないぐらい時間がいっぱいあるようですけれ
ども……。

 目的がある人というのは、自分に与えられた一生では足りないのですよ。だから、お釈迦さ
まみたいに何回も生まれ変わって修行しないといけなくなる。

 -お釈迦さまは求めてやっているわけですね(笑)

 ↑以上、引用終わり。

 「三日坊主」で良いので、自分の人生を如何に創造・演出して行くか?だと思っています。

 そして「三日坊主」になったら、色々、検討・反省し、「初心」を思い出してまた「三日」
やれば良いと。

 実際、私は「一日坊主」です...「三日」ももたない。

 「こうなりたい!」と言うビジョンが常にあって、「こうかな?ああかな?」色々やって
みてみると、寧ろ、毎日、自分を感じ、気持ちを切り替えたり、決心するので「一日坊主」
に違いない。

 一般的に、人は「未来」を「過去」の選択の結果だと思っておられる様です。

 しかし、時間は刻々と「未来」から「過去」へ経過するので、正しくは「未来」から流れて
来た事象を今「選択」し、それが「過去(結果)」となるとのが正しいのではないか?と思い
ます。

 ですから、より良い「未来」を「今」どう「選択」し、その結果を「実績」や「基礎」と言
う「過去」にする...その視点で、「未来」を「ベストチョイス」出来る為に、「自己管理」と
「ビジョン」が大切だと思っています。

 日々「歩む道」に一歩一歩、「足場」を組んで行く感じでしょうか?

 そう思うと「どうせ...」とか「かったるい」なんて言っている暇がなくなります。
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                今も工事中の「サグラダ・ファミリア」

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by cute-qp | 2010-07-27 00:00