私は山登りが得意ではありません。

 「河童の山登り」と言っても過言ではありません。

 なので、何の知識も経験もありません。

 教えて下さる方もいらっしゃいません。

 でも、切っ掛けを頂き、登ることにしました。

 ただ、懸命に登るしかありません。

 でも、毎回、必死に登る内、感じることがあります。

 そして、感じた事を胸に、次回に備えます。

 それで予想以上に上手く行く事もあり、

 予想だにしない大失敗になる事もあります。

 もの凄くちっちゃい、つまらない自分が見えてきたり、

 ある瞬間、偶然、無心になれる自分がいます。

 同じ山も日によって、その表情を変え、気を抜くと怪我をします。

 だから、ただ、起きることを逐次、感じながら、ひたむきに登っています。

 そうする内、私にとって「山登り」は「積み重ね」となり、愉しくなって来ました。

 ...そんな近況を交えながら、今日の研究会を迎えました。

 今日のテーマは、大きく2つ

 「自分を感じる為に」

 「肚を介して」  でした。

 以前、「湖水を伺うならば、それをかき混ぜない」...お話をしましたが、

 それを単独、相対稽古で体験して頂き、

 「かき混ぜている」自分やその状況を感じて頂きました。

 そして、湖水を乱さない、

 「ポジショニング」や「呼吸」、「スピード」、「意識」、「バランス」などを研究して行きました。

 また、どうしても「各論」や「技」に翻弄される所を、

 慌てず、ゆっくり、各位のペースで、

 「まず、肚を介しているか」を様々なアプローチで観て行くことにしました。

 最後に「手応えの無さ」がどれほど貴重な感覚か、皆さんと感じた次第です。

 私は偶然「自ずから映らば映る映るとは...」に触れ、

 ただただ、嬉しくて嬉しくて。

 来月に向け、懸命に積み重ねます。

 宜しくお願いします。


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 (参考)
  「無為自然」
  「体を使い心をおさめる」

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2015-06-29 00:00 | バランス運動療法・調整法

「無為自然」

 今日の学びの中で浮かんだ言葉は「無為自然」(老子)

 「無為」と言うと、「無為無策」、「無為に時を過ごす」の様な、

 「何もしない」の意味で使われますが、

 この「無為」は「意図や作為がない」...を言うのだろう...と感じました。

 静かな湖面の様な気持ちや動作にあると、

 自分を縛っている自身の緊張や意図、

 そして、その内にある、自然な体や心の働きが映って来ます。 

 「見よう、やろう」として来たんですが、湖水を濁して来たのですね。

 だから、この身の内にある「自然に任せる」感覚と大事さを想いました。

 その意味で、「水晶」を見ていると、澄んだ湖面を見ている様です。

 そして、身に触れてみると、この動かない石の存在感(重さ・形状・質量)や、

 動かないけれど何気に響いてくるものを感じる内、

 先生の仰る「転写」・「共鳴」の如く、

 私は湖面で、湖面は私...みたいな感覚に...。

 その気持ち良さ、心地良さは何とも言えませんし、スイッチになりそうです。

 日本刀も水晶同様使えますね。


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 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2015-06-22 00:00 | バランス運動療法・調整法

 「体を使って心をおさめる 修験道入門」 田中 利典 著より引用・掲載します。 ⇓

 修験とは「修行得験」あるいは「実修実験」の略語です。実際に自分の「身体」を使って
修め、行じていく。つまり、自分の身体にありありと「験」をつかんでいく

 それが山伏の修行です。深山幽谷を蹟渉(歩きまわること)し、自らの身心を使って
限界まで修行する。私たちはそれによってさまざまな霊力や験を得ていきます。

 試験とは、勉強の験を試すという意味ですが、同様に修行の験を修めるのが修験なの
です。

 山を歩く。礼拝する。滝に打たれる。冥想をする。これらはすべてが山伏の修行です。

 そしてぜんぶ、身体を使った実践修行です。このように、私たちは理屈ではなく、自分の
五体を通して実際の感覚を体得するということを繰り返し、
それによって心を高め悟りを
目指していきます。きわめて実践的な宗教、それが修験道。そして、大自然の聖なる力、
超自然的な神仏の力(験カ)を修めた者という意味で「修験者」とも呼ばれるわけです。

 また、実践的な修行は、山の中だけではありません。山で験力を獲得した修験者は、里
に降りて、護摩を焚き、地はらいや雨乞いをはじめ、憑きもの落としや安産祈願、病気平
癒の加持祈祷など、人々の願いに応えてさまざまな実践活動を展開します。山の行より里
の行、つまり里の人々の中での活動もまた、山伏の大切な修行実践
なのです。

                          *  *  *

 すなわち、修験道は実修実験、修行得験の道であり、自らの身体を使って修行して、験
を得るところに神髄があります。

 「験を得る」とは、験力や神仏の加護を獲得することばかりではありません。究極は自ら
の心を高めていくこと、心をおさめること
、すなわち菩提心(悟りの心)を得ることにあります。

 たんに頭の中の考えだけで心をおさめるのではなく、身体を使って心をおさめる、ここに
役行者の教えが端的にあらわれているといっていいでしょう。

                          *  *  *

 また、山上参りや奥駈修行などの山修行では、修行者は声を合わせて「懺悔、懺悔・
六根清浄」と、掛け念仏を唱えながら山を歩きます。

 身をもって餓悔し、自己を見つめ、身心を清浄にすることこそ、より良く生きるための
第一歩だと思います。

 では、もう一つの大切なこと、感謝とはなにに感謝するのかというと、いま生かされて
いる日々に感謝する
のです。私たちが生きている日々というのは、とてつもなく貴重です。
二度と訪れることのない、かけがえのない瞬間なのだと思います

  眼が見える、歩ける、物が食べられる、話ができる-「そんなことはあたりまえ」と
思い、不平不満だらけの生き方をしてしまいがちです。しかし、自分かこうして暮らして
いけるだけでもありかたいわけで、そこにさまざまな人たちの支えがあるからこその毎日
なのです。

                          *  *  *

  修験者は深山幽谷を跋渉して大自然と一体となることによって、わが身のケガレをは
らおうとするのです。身・口・意の三業がつくってきたケガレをはらうのです。

 俗なもの、ケガレだもの、そういう自身の罪業は一度死んで、大自然という神仏によっ
て新たな命を授かって再生するのです。そして、生まれ変わった清浄な身心となって山を
出る。それが、入峰修行の極意です。

 また、入峰修行は、一度だけ体験すればそれで良いというものではありません。

 修験者は、毎年、同じ山に入り、同じ道を通って登ります。同じ山に分け入るというの
は、修行には効果的なのです。

 初めての山ではどうしても景色にとらわれますし、道に迷ったりしないかといらぬ心配も
します。ところが、五回、十回と同じ道を登っていますと、道はすべて頭に入っています
から、周囲の景色を見ながらも自然に気持ちが統一されてきます。


 吸う息・吐く息、足の運び、体幹の動き、一つひとつの動作に感覚は研ぎ澄まされてい
きます。余計なことは考えません。ただただ、いまの自分の動き、わが身のいまの心を観
ています。いわゆる「歩く禅」のような境地を体得できるのです。そこに入峰修行の極意
があります。


 何度も同じ道を入峰修行しているうちに、いろいろなことが見えてきます。気づかされ
るのです。「人生どうあるべきか」ということも、自分なりに体得されていきます。


 山中の草木をはじめすべてのものは、自分をことさら主張することなく、他と比べるこ
ともなく、まさに「おのずからあるもの」として、それぞれの時季がくれば花を咲かせ、
それぞれの命をまっとうしている。そういうことが、山の修行では時として「まさにその
とおりだなあ」「ありかたいなあ」と実感されます。

 ⇑ 以上、引用終わり。

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 (他に読んでいる本)
  「霊峰富士の力 日本人がFUJISANの虜になる理由」 加門 七海 著

 (参考)
  「信心決定」
  「実修実験」

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2015-06-19 00:00 | 温故知新