光永覚道:著「回峰行を生きる」から引用・掲載致します↓。

 先ほどもいいましたが、だれでもいろいろな判断をしなければいけないときに、そのときに
自分の持っている能力を持って、最大限の一番のいい判断を積み重ねて人生を歩んで
きているんです。ただ、そのときの能力が後で振り返ったら不十分ですから、なんであん
なばかなことをしたんだろうと思うんですが、基本的に人生というのは、それぞれだれで
もがそのときに自分の判断する能力をもって、一番いいという判断を積み重ねて歩んで
いるんです。

 「やっているときはベストを尽くして、終わった後ではべ夕ーだと思いなさい」と、いつ
も言っているんですが、そのときは一番いい判断をしたのですけれども、結果的に後で考
えると、一番いい判断ではないということが往々にしてあるわけです。ただ、ひとつのこと
を自分で決断して、そのときの自分の能力の最大限をフルに発揮して、その決断をして
結果が悪かったとしても、自分の判断で自分が向上したら、その次にはまた違う結果を
得られます。

 そういうふうにして、自分が判断して、一番いい判断を繰り返すような人生を歩んできた
という意識を持てたら、失敗を受け入れることができるんです。受け入れることができたら
、失敗を繰り返さずに済むんです。ところが、判断して結論を出していないという意識を持
って、流されて結果的にそういうことをしたと思っていたら、失敗を受け入れられませんか
ら、同じ失敗を繰り返さなければいけない。そういうことになっていくんです。

 そのなかで万物流転という言葉がありますけれども、常に物事というのは流れていくので
すから、同じ物事が起こっても、きのう起こったことと全く同じことが今日起こっても、き
のうの経験がありますから、人間は今日はまた違った判断をするんです。ですから、毎日
同じ行為をしていても、毎日違う結果が出るんです。

 私がする話でも同じであって、私が百人の方に向かって同じ話をしても、それぞれの方が
背負っている人生が違いますし、経験が違います。そうしたら、それから受け取る、導き出
す自分の考え方は変わってくるんです。

 (中略)

 十人十色、百人百色なんです。同じ話を聞いても、お釈迦さまの説法も八万四千の教え
があるということですけれども、本当は八万四千の教えではないんです。八万四千の受け
手がいたということなんです。悟りというのは本来ひとつのものだと思います。そのお釈迦
さまの話を聞いた人たちが、それぞれの持っている人生観によって解釈が変わっただけ
です。表現方法が変わっただけです。ですから、悟りというものは本来は一つである。幸せ
も1つなんですが、人の数だけ、幸せの種類が違いますし、悟りの種類も違う。その幸せ
が違うのですから、よその幸せと比較することもないですし、よその悟りと比較することも
ないはずです。

 (中略)

 自分の与えられたポジションで精一杯のなすべきことをさせていただく。するのではなく
て、させていただくんです。それぞれが自分がなすべきことをしたら、世の中はすべて明る
くなるんです。隅を照らすのではなくて、それぞれの与えられたポジションを照らすという
のが、「一隅を照らす」ということですから。みんなで照らしたら、世の中は明るくなるん
です。必ずいい世の中になるはずです。

 ↑以上、引用終わり。

 先日、上原大阿闍梨に伺ったのが、「千日回峰行」は大変な行であるけれども、一人の
力では決して出来ない。沢山の本当に沢山の人々のお力があって初めて「させて頂ける
行」であり、それをして自分は「お神輿」だと。

 とても納得しました。

 自分に出来る事はたかが知れている...でも、昨日より今日、今日より明日に「ベスト」
を尽くし、より「ベター」な自分を目指そう。

 そして、「出来る」事も結局、何方かの支えがあって初めてやらせて頂ける。だから、
せめて「担ぎ甲斐」のある、「担ぎ易い」お神輿になろう。

 「我は木偶なり 使われて踊る」...K野先生の職場にもそんな言葉がありました。

 いつも有難うございます。これからも宜しくお願い致します!!
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          上原行照「道心 比叡山千日回峰行」DVD(DQBW-1325) 

(参考)
 「知識」と「知恵」
 「セルフコントロール」と「ビジョン」
 「春風駘蕩」に逢いに...
 「小春日和 10/07/19」

 バランス運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2010-07-28 00:00

 光永覚道:著「千日回峰行 真実に生きる」より引用・掲載致します↓。

-修行というものがセルフコントロールとつながっている部分があるというお話がありましたが
、回峰行というのはたいへん厳しい行であるというイメージがわれわれにはあります。

 たしかに見た目も厳しいですし、やっているほうも厳しいですけれどもね。

 前に言った「決める」という部分です。決めて行為を行う。その場合には、その結果を受け入
れて前に進んでいく。どなたでもそうだと思うのですが、毎日決めていろいろな行為をしている
わけです。その決めて行為をして、その結果をいろいろなかたちで受けて、それを日々積み重
ねていく。まわりに流されて人生を歩んでゆく場合と違い、決めて行為を行っていく場合に、
自分の人生における最終的な目的というか、自分がこうありたいという目的をもって決めてい
くのと、目的をもたずに決めていくのとでは、得られる結果が全然違ってきます。自分は五年
後にどういう姿になりたい。十年後にどういう姿になりたい。いまこういうふうな自分になり
たい。このように目的があって、毎日の生活のなかで一瞬一瞬判断をして決めて動いていく。
それによって人間ははじめて向上していく。目的があってはじめて修行になるのです。

 人生には困難がつきものです。人間というのは横着な生きものですから、暇があったら休み
たいという気持ちが強い。そのときに、横着したいという気持ちと、いや、この目的に向かっ
て努力を続けなければと、相反する気持ちが常に両方、心の中で葛藤しながら生活している。
これはだれでもあることなのです。ない人間のほうがおかしい。ですから、目的を見失わずに
コツコツと努力を積み重ねていけるというのが、セルフコントロールであると思います。そん
なに難しいことではありません。

 目的があって、自分はこういう姿でありたいというイメージができている方は、セルフコン
トロールができるのです。目的がない人、自分のイメージがない人は、セルフコントロールも
できませんし、この世界で言う修行もかなわない。まず自分がこうありたいというイメージを
自分でつくれるか。つくるということは向上心につながってきます。自分は明日どうありたい
か。五年後にどうありたいか。十年後にどうありたいか。こういうことをしておきたい。ああ
いう姿になりたい。ここまではレベルアップしたい。そういう自分の将来のあるべき姿をイメ
ージできるかどうかです。それが向上心ですし、その目的です。

 人間というのは、常に頑張りたい、休みたいという相反する気持ちをもっていて、常にその
なかで葛藤しながら、ここはここまでやってみよう、ここは休ませてもらおうと、自分のなか
で選択をし、判断をしながら人生を歩んでいるのです。そのときに、目的がはっきりしている
人間ほどセルフコントロールがききますし、脇から見たら修行しているように見えます。目的
を見失った人間は、セルフコントロールとか修行という世界とはまったく関係がなくなってし
まう。欲に流されるとか、怠惰に過ごすということになります。

 目的のない子供たちがふえていると言いました。人生の目的がない。存在意義を感じられな
い。自分のあるべき姿が見えないわけです。小さい頃から自分で考えて行動させてもらえずに
、親の言うままに育ってきた。親の言うことをよく間く子供は良い子だという考え方のもとで
、俗に言われる指示待ち世代というわけです。自分で考えて行動するという意識のない、そう
いう人間は何を言っても始まらない。いましたいことがない子に何がしたいのかと考えさせる
までが大変です。自分がしたいことがあれば、人間なんていうのは、後ろからドンドンお尻を
叩かなくても勝手に歩んでいくのです。こういう大人になりたいでも、こういうふうな生活を
したいでも、何でもかまわないのです。その姿が描けたら人間というのは動きだせるのです。

 ただ、あるべき姿が描けないから動きだせずに怠惰な生活を「かったるい」と言いながら送
っている。目先の、今日したいことしかありません。明日のあるべき姿を思っていません。今
日こうありたいのではなくて、明日どうあるべきかということを思えたら、人生というのは変
われるのです。いまの子どもたちを見ていると、今日何がしたいというイメージだけで動いて
いる子が多いのです。いま何がしたい。いましたいことをいまして何が悪い。その延長線上に
明日があるわけですが、明日自分がどうあるべきかという思いはありません。今日も遊びたい
し、明日も今日と同じように遊びたい。明日のための今日ではないのです。今日の延長線上の
明日である。明日のための今日になったら人生は変わってきます。

 -セルフコントロールというのも、難しい、何か特別のことではなくて、むしろ五年後、十
年後の目的をもって生きるということにつながるのですね。

 目的を見失わずにいくということです。前に述べたように「初心忘るべからず」と「三日坊
主」という話と通じるわけです。人間なんかそんなしっかりしたものではない。三日経ったら
忘れるのですから。一瞬一瞬でそれを繰り返しているのですから、三日も続いたら大したもの
なんですね。三日をいちおうかたちとしてはやっても、中では二回も三回もめているんですか
らね。それを否定することはないと思うんですよ。それと無理して戦ってもむだなエネルギー
を使うだけです。

 それを思い切れない自分を「ああ、情けない。何でできないのか」と思っている。それはむ
だなことです。できなくて当たり前なんですから。それだったら、もう一回やり直そうという
ほうにエネルギーを注いだほうがよっぽどいいのです。できない自分を認めてしまわないと、
そこに工夫が生まれないのです。人生が後ろ向きになってしまって先に進めなくなります。

 -よく陥ってしまうんですけれども。

 自分に与えられた時間というのは山ほどあるわけではありません。実際に目的があって動き
だしたら、人生に与えられた時間というのは足りなくなってきます。六十過ぎても七十過ぎて
も、生き生きして時間が足りないといって懸命に時を過ごしている人がいるでしょう。いっぱ
いしたいことがある人たちです。

 -したいことがないと、何をしていいかわからないぐらい時間がいっぱいあるようですけれ
ども……。

 目的がある人というのは、自分に与えられた一生では足りないのですよ。だから、お釈迦さ
まみたいに何回も生まれ変わって修行しないといけなくなる。

 -お釈迦さまは求めてやっているわけですね(笑)

 ↑以上、引用終わり。

 「三日坊主」で良いので、自分の人生を如何に創造・演出して行くか?だと思っています。

 そして「三日坊主」になったら、色々、検討・反省し、「初心」を思い出してまた「三日」
やれば良いと。

 実際、私は「一日坊主」です...「三日」ももたない。

 「こうなりたい!」と言うビジョンが常にあって、「こうかな?ああかな?」色々やって
みてみると、寧ろ、毎日、自分を感じ、気持ちを切り替えたり、決心するので「一日坊主」
に違いない。

 一般的に、人は「未来」を「過去」の選択の結果だと思っておられる様です。

 しかし、時間は刻々と「未来」から「過去」へ経過するので、正しくは「未来」から流れて
来た事象を今「選択」し、それが「過去(結果)」となるとのが正しいのではないか?と思い
ます。

 ですから、より良い「未来」を「今」どう「選択」し、その結果を「実績」や「基礎」と言
う「過去」にする...その視点で、「未来」を「ベストチョイス」出来る為に、「自己管理」と
「ビジョン」が大切だと思っています。

 日々「歩む道」に一歩一歩、「足場」を組んで行く感じでしょうか?

 そう思うと「どうせ...」とか「かったるい」なんて言っている暇がなくなります。
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                今も工事中の「サグラダ・ファミリア」

 バランス運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2010-07-27 00:00

「知識」と「知恵」

 光永覚道:著「回峰行 いま人はどう生きたらよいか」より引用・掲載致します↓

 これは知恵と知識の問題です。親父さんが六十年間生きてきて身につけてきたものは、親父
にとっては知恵なんです。ところが、親父の知恵を息子に言ったときには、聞き手の息子にと
ってはそれは知識でしかないのです。それを自分の経験に照らし合わせて知恵に変えなくては
いけないんだが、その年の差は絶対縮まらないんです。親父は、自分が勉強して得た知識を経
験を通じて知恵に変えていく。これは大切な知恵なんです。ただ、これは親父にとっては知恵
なんですけれども、それを問く息子にとっては、それはあくまでも知識でしかない。理屈なん
ですからね。ですから、そこに必ずすれ違いが生じるわけです。親父は最高の知恵を息子に授
けているんですが、息子にとって知識でしかなく、学習するだけで経験を通じて自分の価値観
に変えていませんから、分からないんです。

 (中略)

 「自分が接する人間がすべて自分の鏡」だということを言いましたが、自分の子供であれ、
仕事上の付き合いをしている人であれ、自分が相手の立場で物事を考えられたら、自分のもっ
ている知恵をそのまま知恵として相手に伝えることは可能です。相手の立場で発想できて、
そのなかで最善であろうという方法論を示すことができるのであったら、知恵に近いかたちで
知識を伝えることができます。それができるかどうかです。

 年代とか、その人の歩んだ人生によって、感じ方は全部違います。いいと思う場所も違いま
す。必ず自分の身に振り返って物事を考えますので、そういうことになります。お釈迦さまは
対機説法で百人の人がいたら百種類の話しに変えたという言い伝えがあります。本当は一つ
の話しかありませんが、解釈は百人百様だから、百の話になってしまうわけです。あくまでも
話は一つです。真理が一つであるのと同じです。真理はあくまでも一つです。しかし、相手の
人生観とか経験によって受け取り方が違うので、山ほどの法話が出てくるというわけです。相
手に合わせて一つの真理をいかに伝えるか。自分の経験をいかに伝えることができるか。それ
ができるようになって、そういうことを常に思いながら生活していけるかということです。

 ↑以上、引用終わり。

 最近、とみに春風堂が思う事。

 ① 学ぶ際は、「自分なり」の習得・再現をする必要がある。

   先生が懇切丁寧に、そのエッセンス教えて下さったとしても、年齢・経験・個性・性別
  目的などが異なる為、必然的に、物事の「感じ方」や「受け取り方」、「表現方法」も異
  なる。

   見せて頂いたもの、感じさせて頂いたものを「どうやって自己再生するか?」自分なり
  の検証・工夫が必要。

   自分自身で「追体験」する事が大切。

 ② 伝える際は、伝える相手の心身の方向性を見据え、そこがベストバランスする様、根気
  良く行う。

   「教科書」や「自分の感覚・経験」を「尺度」に、それをそのまま人に「消化させる」
  事は「無理難題」に均しい。

   大体、「自分自身の知らない自分」も沢山あるのに、他人の事が「分かる」と想う事
  が大きな間違い。

   お互い「分からなくて当然」...が「前提」。

   その人の言動を良く見極め、その意識と行動に「補助線」や「違う視点」を与える事で
  、相手の「経験」や「気付き」、「反省」、「興味」が起こりうるバランスを探る。

   「何故、そうなのか?」が大きなヒントとなる。
  
 バランス運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2010-07-26 00:00

無意識の要求を見詰めて

 相手を理解するということは相手の言葉だけにたよっては出来ないのである。相手を理解し
なければただ自分が言いたいことを言っているだけに終ってしまうものである。それ故むずか
しいのである。相手を理解するということは相手が言葉に出せないでいる無意識の願望を読み
とることであるが、人間が無意識に示す動作にはその内心の願望がいつも表現されているもの
である。自分で全く意識しない願望迄がヒョッと顔を出す。それ故無意動作を丁寧に観察すれ
ば人間の理解は深まるのである。もっとも右手を動かしたとか、右顔が縮んだとか、無意に動
かしたのであってもその動いている部分の動きだけを見ていたのでは駄目であるが、その人間
の動作する前に動くもの、即ち内心の要求の動きを見つめておれば、その無意動作に表現され
ている無意識の願望をつかまえることが出来る。一つの咳ばらいを聞いただけでも。内心の動
きは判るものなのである。しかし無意動作は常に有意動作の中にかくれている。その有意動作
の背後の無意動作をつかまえ出すようにならないと相手の願望をつかまえることは出来ない。

 美味しそうな湯気の立っている皿の上の御馳走に思わず眼をやる。その眼の動き方と速度を
つかまえれば、空腹なのか、貧しい生活をしていたのか、武士は食わねどなのか、その区別は
そう難かしくない。一パイのコーヒーを出されても、惜しんで出したか、厭や厭や出したか
、心からもてなすつもりなのか位のことは誰にでも判る。この誰にでも判ることを丁寧にくり
返して観てゆくと、他人に判らないようなことが段々判ってくる。これが指導技術を修めよう
とする人の先ず心がけたい問題なのである。

 無意識の観察は、無意識動作のそのものを先ず観なければならない。例えば、有意動作の
最中にでも無意動作をその中に見て取らねばならない。しかしそれは 瞬きをしたとか、ク
シャミをしたとか、そういう生理的な反射運動を見ていることではない。心の中の要求の表現
としての無意動作を見究めることが必要なのである。ヒヨッと浮んだ冷笑とか、大声で笑って
いるうちに動く不安の影とか、本当らしいことをいっそいる中に嘘を交える表情とか、恥かし
いとかいって袂を噛むその動作その上に出る芝居気とか、ともかく無意動作そのものを見るの
ではなく、無意動作に表現される人間の中味の動きを掴まえ出すのでなくては指導する人の観
点は確立しない。もっとも吾々の如く体を通じての生活指導をするものにとっては、瞬きでも
クシャミでも、緊張でも弛緩でも、その変化でも速度でも、重心の移り変りでも 何でも一切
見逃す訳にはゆかない。

 坐っておじぎをしたときに尻がもち上る。それからでも性器異常とか、不決断の性格とか、
強情だとかいうものを見出ださなくてはならない。ちょっと坐った膝の右が引っ込んでいると
いうことから腰椎二番の左移動、そこから便秘や心の不安を見つけなくてはならない。たゞ普
通の意味での指導ということを行なうのなら、無意動作そのものが要求の表現であるから、そ
の無意識動作に潜む人間の要求さえ引っ張り出せば、その行動をリードすることはむずかしく
ない。

 音楽と一緒に足でトントンと拍子をとっておれば、リズムに敏感な性質を持っているとか、
体をこういうようにゆさぷっておればメロディックだとかいうことはすぐ判るだろう。そこか
らこの人は行動的だとか、あの人は思索的だとかいうことを引っ張り出せないことはない。た
ゞ恥って坐るというだけでも踊りをやっている人は色気を振りまくし、茶をやっている人は格
式を見せる。当人は意識しているのではないが、そういうことが身に着いてしまっているとで
もいうのだろう。平素の生活をそこから考えられないこともない。

 飯を食うのに、肘を脇にくっつけたままで食べておれば、貧しい生活か淋しい心が連想され
る。たゞ坐って食べるというだけの中にでも、その人の生活全体を物語る無意動作がある。し
かしそれだけではない。無意動作の背後には人間の表現以前の要求とか、無意の願望とか
が連なっているということを見逃してはならない。

 意識的な面からだけ見れば、已に結婚している女性なら特に他人の眼をひくようなおシャレ
をする必要はないのであるが、美しくありたい、多くの人の眼をひきたい無意願望が生ずると
、ベタベタ塗ったり、シナをつくったりする。しかも当人すらそれを格別意識していない。或
る夫人はしきりに亭主のアラを見つけては、それを理由に亭主を寄せつけない。昼は美しく魅
力ある女房であるのに、夜は冷たい人形になってしまう。もともと恋愛結婚だから嫌いな訳で
はない。その証拠には離縁は承知しない。しかも不感症だと亭主はいう。明らかに妊娠恐怖の
徴候であるが、誰にも判らない。当人にも判らない。ただ亭主の厭やなことだけが眼に入り、
気に障る。そして亭主を嫌いだと思い込むに至る。本当は亭主が嫌いなのではない。亭主の行
為の資らす結果が困るだけなのであるが、当人には区別がつかない。た£結果としての現象、
「亭主が嫌いだ」としか感じない。その見当ちがいから思わぬゴタゴタが生ずるのである。

 同じ坐るのにでも、踊りをやる人は色気たっぷりに坐り、お茶をやっている人は堂々と坐る。
踊りやお茶をやっているからそんな風に坐ると,いうことが判れば何でもないのだが、知らな
い人はとんだ恵いちがいをしないとも限らない。又同じ踊るにしても、表現以前の願望を蓄え
ておれば、その踊りにも濃厚なゼスチャーが無意に現われるだろうし、お茶をやる人が他に示
したい何かがあれば、その堂々さにも別の表現が加わるであろう。

 このように人間の無意動作は、人間の内に潜んでいるもの、人間が動く前に動くものを知る
のに良い手がかりとなるものである。お化粧が濃くなる背後には無意の願望がある。この無意
の願望は何によって起こるぃのか。こう突きつめてゆくと、人間の本性という可きものに突き
当たる。これを掴まえてしまえば、人間の無意動作の意味は余りむずかしく考えなくても判る
のであるが、まアその前に表現に至る道筋を確かめておこう。

 ↑以上、野口晴哉 著 「人間の探求」より引用。お

 患者様を拝見する際、ざっと全体のバランスを拝見します。

 そして、特に気になった所や印象的な所からその動きを見て行きます。

 どうすれば、動きの悪い場所がバランスを取り戻し、良い動きになるだろうか?...動きを
確認しながら施術して行きます。

 その内に、「どうしてそうしてしまうのだろう?」「動かざるを得ないのだろう」と言う
想いが身体中を巡り始めます。

 施術しながら、ちょっと自分も「その様に」動いてみたり、イメージしたりしてみます。

 何とはなしに浮き上がって来る「無意識の要求」があります。

 身体の歪みもさることながら、その「要求」を見据えて施術すると、患者様の「独白」に
居合わせる事が多いです。

 それは「気付き」であったり「確認」であったり「反省」であったりします。

 その瞬間、患者さまの心身の方向性が「ベストバランス」に向くのを感じます。

 一方、「無意識の要求」の延長線上に患者様の「夢」や「希望」を見出す事も少なくあり
ません。

 私がその「夢」や「希望」を知り得るはずもありませんが、関わらせて頂ける可能な範囲
で、そこに至る「補助線」や「点線」を引いてみます。

 それが上手く出来た時、ただ「愁訴を治す」と言う事に「前向きな指針」が出て、気持ち
も明るく、生き生きとした想いが施術室にも溢れます。

 「治療」にも「運動処方」にも様々なスタイルがあると思いますが、現時点で、私なりの
「バランス運動療法」はこんな感じです。

 ひとつひとつ丁寧に感じ 観察したいと思います。

 バランス運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2010-07-23 14:00 | バランス運動療法・調整法

 皆様のお身体を拝見する時、常に「身体の不調」とバランスを取っている「意識の方向(想い
癖など)」や「日常の習慣」などの存在を感じます。

 そして、ご自身がその事実に「気付かれた瞬間!」...「不調」のみならず、気持ちの方向も
劇的に変わり、全身から「やる気」が満ち満ちて来るお姿を毎回拝見します。

 とても「前向き」で「自立した」お姿です。

 そんな「気付き」を後押しする為、春風堂での施術には「運動処方」が含まれています。

 「運動処方」の目的は↓

 「センタリング呼吸法」や「バランス運動療法」をベースに...

 1. 愁訴の元となる「癖」や「習慣」を「身体」からのアプローチで改善します。
   
   身体を通して「自分を常に見詰め、感じる」ことで自分自身への感受性が高まり、

   身体の「回復力」と「バランス力」が向上。
   「根本原因」を改善する事による「症状の好転」 
   「不調を未然に予防」               などの「感受性」を向上させます。

 2. 合わせて「つい、そうしてしまう癖(飲み過ぎ・すぎ食べ過ぎ他)」に気付き、
   自分の「心」や「意識」と向き合う事で、

   「想い癖の改善」
   「日常の出来事との様々なバランスのとり方」
   「アンバランスを早期に察知する」      など皆様の「感性」を高めます。

 3. 「心身の健康」をベースにした「日常生活の”質”の改善」。

   心身には「ホメオスタシス」機能があり、生涯、我々を支えています。

   その「バランス機能」に気付き、上手く付き合う事は「日常や自分を変える愉しみ」
   となりえます。

   その為にも、「自己管理」を「義務」でなく「愉しみ」として頂くのが目的です。

   「健康」と共に「美容」を図る。
   「体調の回復」と共に「出来なかった」に挑戦!
   「新しい目標を立てる」、「目標を達成する」  など方向性を「創造」して行きます。

 4. 更に「パフォーマンス」を向上させ、様々な「挑戦」を「サポート」します。

   現在、プロアマ問わず、「運動処方」をメインにしたオファーも頂いております。

   例えば↓

   「水が怖いけど泳ぎたい!」
   「マスターズでの成績を上げたい!」
   「水泳の指導に生かしたい!」
   「綺麗で健康的なダンスを踊りたい!」 などの「挑戦をサポート」しています。

   「ジャンル」は問いません。

   皆様の「夢への挑戦」を「二人三脚」でサポートしています。

 ...情報「過多」社会の昨今、私達の「感じる力」はどんどん「去勢」されています。

 しかし、最大の治療家は皆様の「お心とお身体」です。

 春風堂の「運動処方」は皆様の中にある「感受性や感覚」を呼び起こし「アンバランス」
を「バランス」させます。
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 バランス運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2010-07-06 00:00 | バランス運動療法・調整法

 ……私は経験のない体操をやってはじめて、それは、身にしみて感じた。何か意味があって
それは恐らくやらされた、と。

 私は大胆にもそれを虚実でやろうと、フォーム(Form)かたでイメージして体操をやりな
がら、或は操作法を一緒に研究しながら、どうしても私はこれを指圧の中に生かさなければい
けないと思った。

 この様なイメージ体操をやり出したというのは、外人講習をやりながら英語の勉強をしてい
る私はいろんな面白いことに気がついた。とにかく体操というのは、ヨガなどで失敗しやすい
のは、この模範に示されたシェイプ(shape)かたちに近づこうとしてみんな努力する、そこ
で無理をして体をこわす人が多い。

 かたちというのはいわゆる外側という意味、要するにフォームの方はかたちでなく一つのま
とまったもの、かた。お茶の作法もフォーム、やり方が流れる如くに動くというところにフォ
ームが完成されたと言われる。

 これは指圧の場合もそうです。指圧、要するに経絡というのはかたちじゃない、一つのフォ
ームです。だから体もそうですし指圧そのものも私は一つ一つのかたちをみてはいけない、私
のフォームをみて下さいと言っています。この体操がそうなのです。

 体操のかたちをみてはいけない。そこへ行く道程、流れるようなかた、フォーム、そういう
ものヽ中に気の流れを見出す。流れが大事です。気の流れ、経絡です。この流れをスムースに
するというのが、最近私のやっているところの神仙術です。

 生命の真を保つ所以にして、エネルギーの真です。生命の真を充実させる。固定した充実は
本当の充実ではない。游をその外に求めて、游という事は一つのことに囚われないこと、漂う
ごとくに浮いているが游泳の游のように必ず方向がある。その方向をもってずーっと隈なくま
わるということが游です。この游という事が経絡なんです。経絡の方向というのは全身を隈な
くまわらなければいけない。

 まさに経絡指圧は神仙術、指圧だけだと思ったが指圧だけじゃない。指圧と、この導引を含
めてです。そこでどうしても私は経絡を完成する為にはこの体操をやらなければならなかった。
で、按摩導引というのはいわゆる神仙術の根本です。一つの方向をもって隈なくぐるぐるとま
わることです。ごれが経絡でもあり、体操の根本でもあり、生き方でもあるという事です。今
ここへきて非常に面白くなってきています。

 ↑以上、増永静人 講義録より引用・掲載。

 若手の皆さんに提案し、「健康維持互助会」と言う集まりを始めて1年半程経ちました。

 今、若手の皆さんは、一生懸命、先生や先輩方の「真似」をしている最中だと思います。

 しかし、その「裏」に「潜み、流れ、息づくもの」を感じずに、その外見を真似するだけ
では「形態模写」で終わってしまいます。

 自分なりに、自身の中に、その「潜み、流れ、息づくもの」を「再生する」事こそ、
「学ぶ=真似る」の真意・真骨頂だと思います。

 また、それを「伝える」事は自身が「再生できるものや情報の量」と「再生能力」、「イ
メージ力」が大切になってきます。

 伝える相手と「個性」や「背景」、「経歴」は当然、異なる訳ですから、相手の意識と
身体の働きとバランスを見据え、どう再生・カスタマイズするか?が課題となります。

 「思っていたより感じている。」「阿吽二時」で紹介して頂いた、「鶴のあうあう」他の
「切り口(メソッドや練習法とは捉えていません)」は、私がK野先生に教わった事で
苦手だったものを「自分なりに」組み立て直し、お2人用に「カスタマイズ」たものです。

 ブログの感想から、それを感じとって頂けた様で...嬉しく思っています。

 更に、患者様に対する「施術」は、その心と身体に「潜み、流れ、息づくもの」も
観察し、そのバランスをより良いものにする事だと思っています。

 多分、我々の先達が見出した「経絡」や「気」、「プラーナ」などは、そう言った働き
を表現したものだと思うのです。

 そんな感じで、私もこの新展開にワクワクしています。

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                「真理は1つ」...でも行きつく方法は様々
 
 バランス運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2010-07-02 00:00 | バランス運動療法・調整法