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 唐突ですが、今日は「トマティス・メソッド」からお話を始めさせて頂き致します。

 「トマティス・メソッド」は、一般的に「モーツァルト」や「グレゴリオ聖歌」を用いたもの
で有名です。

 アルフレッド・トマティス博士は1920年オペラ歌手を父に生まれ、幼少から音楽
に親しむ環境に育ち、パリ大学医学部卒業後、耳鼻咽喉科および音声医学を専門と
されます。
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 そして、「聞こえない音は再生できない」という有名なトマティス理論は、
第二次世界大戦中の兵器工場のクリニックでの経験が原点でした。

 そこで治療をしていたときに、騒音で難聴になった患者の声の変化に気付き、失
われた声を取り戻すために、トマティスメソッドという聴力トレーニング法を開発した
そうです。

 そして、声が出なくなったマリア・カラスを見事に甦らせたり、吃音で悩んでいた
俳優のジェラール・ドバルジューを治療した話は有名で、トランペットのモーリス・
アンドレやヴァイオリンのジノ・フランチェスカッティ等といった器楽演奏家やスティ
ング等ロック系ミュージシャンらも、技術の向上と安定のためにトレーニングを受け
、あるいは研究に協力しているそうです。

トマティス・メソッドの3原則(春風堂:私はこれを「聴覚」だけの原則だと
思いません)

 1 耳で聴き取れない音は発音できない。
 2 聴覚の改善により発声にも変化が現れる。
   損傷を受けた耳が、失われた、あるいは損なわれた周波数を正しく聞えるよ
   うにしますと、その周波数は、発声の際に瞬間的、無意識的に再生されます。
 3 聴覚の改善後、発声の改善も定着させる事ができる。
   聴覚刺激をある一定の期間与えると、残留現象により被験者の自己聴取の
   姿勢が変わり、結果的に発声が変わります。
   耳は、中耳の鼓膜張筋とアブミ骨筋で音の調節をし、聴覚に連動して第7神
   経系統がアブミ骨筋とともに、唇の周囲の口輪筋や前方開口の2表情筋を
   制御し、第6神経系統が鼓膜張筋とともに、口を横に引っ張る咬筋を制限し
   て発声を行ます。
   成人になると、この神経と筋肉の全体が母国語に対応する聴覚によって調整
   されていますが、母国語以外の言語に電子耳を調節してこの聴覚を調整する
   と、被験者の神経と筋肉回路がその言語の合わせた動きを始めます。
   この新しい神経―筋肉の作動をある一定の期間訓練することにより脳が記憶
   し残留の効果を生み出すのです。

 トマティス博士はこの法則を機軸に聴覚、心理、音声学を一体としたトマティスメ
ソッドを確立し、幼児から老人まで聴覚に起因する生涯をケアする聴覚トレーニン
グを開発しました。

 ところで...私は語学は苦手です。でも、嫌いではなく、寧ろ「好き」です。

 ただ、一般的な「勉強法」がしっくり来ず、元来、飽き性ですから、「面白くなく」て直
ぐ勉強を辞めてしまうのです(笑)。

 ただ、「聴覚訓練」の一環として「語学」のリトライし、随分、「イメージ」や「感覚」が
出て来て面白くなってきました。

 先ずはこちらをご覧下さい。
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 これは各国の言葉の「周波数」の一覧ですが、例えば、「日本語」と「英語」の周波
数域がかなり違うのが分かります。

 従って、日本人である私が日頃聞き慣れない「英語の周波数域」は何もしなければ
「聞き取れない」訳で、「聞き取れない」ものは「表現できない」ですし、言葉の「ニュア
ンス」もくみ取れない事になります。

 そこで、取り敢えず、「意味が分からなくても良い」ので「サウンド」として「英語」
を聞きます。

 この時、可能であれば、音響機器のミキサーやイコライザーをお使いになるか、ピ
ッチコントローラーを用いて再生スピードを上げ、4000から20000Hzの音声を特化
して聞きます。そうしますと、最も聞き難い発音が強調されて聞こえてきます。

 この速度ですと母国語の日本語でも意味不明です(笑)。

 この「意味不明」が更に良く、全く「左脳が追いつかなくなる」為、「右脳」がぱくぱく
動くこととなります。

 ちなみに、周波数を特化、倍速した英語教材CDは本屋等で安価で市販され
ていますので、機材がなくても心大丈夫です。

 この状況に慣れてきますと・・・例えば、日本語を聞いていても、高い周波数帯に
「脳」や「意識」の「焦点」が合っている場合、自動的に、脳が「英語脳」になっており、
「日本語失語症」の様な状態になります。

 「脳」は1つのことにしか集中出来ないのですね。

 具体的には、「私は、本を持っています」・・・と言う話が、日本語に翻訳せずに「I 
have(私は持っている)a Book(本を)」と聞こえます。

 また、「英語」は音階的に言うと結構「メロディアス」な言語のようなので、言語
的なメロディーラインだけでも「感じることを繰り返す内、その「チャンネル」が入る様
になってきます。

 以上、「聴覚」について述べさせて頂いた訳ですが、これは五感+α全てに共通す
る事と思います。

 結局、「"出来る"ことは"感じた"分だけ」...そこから「自分自身」を「どの
様に感じていくか?」が大きなポイントとなります。

 そのお手伝いを春風堂は身体と心の面からバックアップさせて頂いております。

では良い年末年始をお過ごし下さいませ!!
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by cute-qp | 2008-12-31 00:00

 
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 こちらは「キューピー」の創始者「ローズ・オニール」の手になる「キャラクター」の描き
方についてのです。

 実は「キャラクターは丸で構成される」ことを世界で初めて実証したのがローズ・オ
ニールで、1936年「キューピーヴィレのスクートルズ」誌上、キューピーが丸から誕
生することを実際に絵にかいて実証しました。
 明快な顔の輪郭や小さな丸点の鼻、点のようなまゆ、一本の曲線で描かれた口...
キャラクターの基本である丸と単純化されたラインは20世紀の後期から世界中を巻き
込んだキャラクターの原型となりました。

 この特色は「手塚治虫」さんも同じで、丸が作品構成やキャラクターの随所に見えま
す。実際、フリーハンドでかなり正確な円や線も描けたそうです。(なお、逝去前年、林
家木久蔵に「木久蔵さん、僕はね、丸が書けなくなった」と体調の不良を語っていたと
言います。また、作品の志向性とこの丸構成が「時代遅れ」となった悲劇もありました。)

 現在、春風堂が「調整」や「呼吸」を誘導させて頂く際、如何に、骨盤や体幹を「丸く」形
成して行くか?が1つのポイントとなっています。

 面白いもので、皆様のお身体を拝見する際、「アンバランスな状況」と言うのは「扁平」
であったり、「角張ったり」、「捻れたり」、「偏ったり」して、全体の雰囲気が「丸く」立体的
(球体)に繋がっていない感じがあります。

 そんな場所を「うどんの生地」や「粘土」をこねる様に、1つ1つの「丸」を「部分から全体」
、「小さいモノから大きなモノ」、「表面から深部」に形成し、体全体を上手く「1つの丸」に
して行きますと全身のバランスが整って行く様に思います。
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 従いまして、自分自身で行う「骨盤時計」やその他の「運動」にもこの辺のイメージを
常に感じて動いています。

 宜しければ是非、お試し下さい。
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by cute-qp | 2008-12-30 00:00

立ち止まり、振り返る

 昨夜の すべては自ら確かめよ ~己こそ己の寄る辺~内容を受け、今日はお釈
迦様が悟りを開く切っ掛けになった「瞑想」について少しお話致します。

 先ず、和英辞書で「瞑想」と言う言葉を引いてみると、「Meditation」との訳があり
ます。

 しかしながら、語源的に言うと、ちょっとニュアンスが異なります。

 「Meditation」が「何かを念じる、思い続けていく、考える」と言う意味があるの
に対し、元々の語源見ると、お釈迦様のお経にある「Bhavana(バワーナ)」と言う
・・・「Bha」が「何かが生まれてくる、何かこれまでにないものが生まれる」という動
詞が転じ、「上達する・向上する」から「完成を目指してゆく道」と言う意味になりま
す。

 従って、「Meditation」(念じる行為)は時として「Bhavana」に含まれますが、
「イコール」ではないらしいのです。

 その辺の所を自分を通し、1つ1つ紐解いて行くのが「瞑想」の本旨だと思います。

 法句経(35)より

  心は捉え難く、軽々とざわつき、欲するがままにおもむく。
  その心は制御したほうがよい。
  よく制御した心は、安らぎをもたらす。


 春風堂としては、最も大事な所は、「そこ」だと感じているのです。

 従って、自分の「問題点」や「心身」を観察するところから始め、次第次第にそ
の辺に気付いて頂くと言うのが私自身の課題であり、お話させて頂く者としての
力の見せ所だと感じております。

 その際、心と体を収めるに大きく3つのポイントがあります。

① 自分の心を見る・・・「心のリセット」。

  体調が悪い、落ち込んでいる、腹が立つ・・・その感情に振り回される、振る回す前
 に、ちょっと「立ち止まり」、そんな「自分自身」を良く見ます。

② 呼吸を見つめる・・・「身体のリセット」。

  立ち止まった位置から、先ず、自分の今の「呼吸」を観ていきます。

  大体、物事が上手く行かない時は私達は「息詰まり」ます(笑)。そんな自分の呼吸
 を見詰めます。
  すると、例えば「病人」の様に「肩で息をしている」かもしれませんし、「息も絶え
 絶え」、「胸苦しく」、「息が続かない」のかもしれません。

  そんな時、「呼吸」を起点に自分自身をゆっくり回復してみましょう。

  徐々に身体のバランスが取れ、脈拍も整い、呼吸が全身に行き渡り、「恐怖
 感」や「焦燥感」も消え、「回復」の準備が整うと思います。

③ 呼吸に合わせ、ゆっくり動き、刻々と観察する。

  ①・②でお話し致しました「観察」と「呼吸」と言う足場を使い、自分を丁寧に見て行く
 作業が始まります。

  「熱く・ゆっくり・じっくり・丁寧に」・・・「低温やけど」の様なアプローチです。

  そして、ご自身の変化を刻々と観察して行きます。「ロッククライミング」の様ですね。

(参考)
 「呼吸が変わる 姿勢が変わる 生き方が変わる」
 「身体の声の聴く ~自律神経による治癒反応~」
 「先ずは自分が変わる」
 「神経訓練法としてのセンタリング呼吸法 」
 「相対神経訓練法 ~治療や介護から日常へ向かって~」
 「夢の途中 08/08/23」
 「エンドゲイナー度」チェック!
 発想法カルタ抄
 バランス感覚と修正力
 「セレンディピティ」と「過程力!」
 フサオさんも努力し工夫する 
 もうひとりの自分の目で見る
 自分をサボらない
 日々のメニュー作り ~コーディネイト力~
 中心を観じる
 「美容と健康」には「ヒミツ!とドリョク!」が必要
 「質問にお答えして ~補正下着について」
 「正しい・正しくない」でなく、「感じる・感じない」
 日常を見直す ~立ち居振る舞い~
 自分とどう付き合うか? ①
 自分とどう付き合うか? ②
 私は「主人公」
 先ずは自分自身を感じることから...
 "意味"や"原因"を"どこに"観る?
 日常生活・仕事環境を見直し、改善する
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by cute-qp | 2008-12-29 00:00

 年末特集最終日は A・スマナサーラ長老の根本仏教の講義より引用・掲載させ
て頂きます。少々、長い引用ですがお付き合い下さい↓。

 お釈迦さまの教えと言われているものはいまでもたくさん遺(のこ)されています。
しかし、お話したとおり、どれがほんとうの教えなのか皆目分からなくなってきてし
まったのが現状です。
 ここで、お釈迦さまの教えの真実を理解するために恰好(かっこう)の教科書『カ
ーラーマ経』というお経がありますので、それをご紹介しましょう。

 このお経は「自ら確かめよ」という題です。

 「このように私は聞いた。あるとき、世尊(お釈迦さま)はカーラーマ族の町に入
られた。そこでカーラーマ族の人々は、世尊にこのように訊ねた。

 『世尊よ、ある沙門、バラモンたちがやってきて、彼らは自分の説だけを正しい
と言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。さらにあるとき、
またちがう他の沙門、バラモンたちがやってきて、彼らもまた、自分の説だけが
正しいと言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。
 いったい、だれが誠を語り、だれが偽(いつわ)って語っているのか、という疑い
があります。どうぞ、私たちにだれが正しいのかを教えてください。』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことである。そして、疑
いのあるところに惑(まど)いは起こるものである。
 あなたがたはある説かれたものを真理として受け取るときに、人々の耳に伝え
られるもの、例えば秘伝や呪文(じゅもん)、神の啓示などに頼ってはいけない、
世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない、古くからの言い伝
え、伝説、風説などに頼ってはいけない、自分たちの聖書や教典に書いてあるか
らといって頼ってはいけない、経験によらず頭のなかの理性だけで考えることに
頼ってはいけない、理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけな
い、人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼って
はいけない、自分の見方に(見に合っているからというようなことだけで納得して
はいけない、説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない
、説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、

 カーラーマ族の人々よ、もしあなたがたが、これは不善である、これは咎を持
っている、これは智者によって非難されている、これらの行為は不利益と苦を招
くものであると、自分自身で知るならば、あなたがたはそれらのことを捨て去る
べきである。』

 『カーラーマ族の人々よ、これをどう考えるか。人の心のうちに起こるむさぼり
は、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

 『世尊よ、不利益を起こします』

 『カーラーマ族の人々よ、そのむさぼりをもつ人は、むさぼりによって打ち負か
され、心を占められたものであって、そのむさぼりの心はやがては命あるものを
害ない、与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽って語り、他人にも
そのように勧める。およそこのことが、その人に長いあいだの不利益と苦しみを
もたらすものである』

 『世尊よ、その通りでございます』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。人の心のうちに
起こる怒りは、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

 『世尊よ、不利益を起こします』

 『カーラーマ族の人々よ、その怒りを持つ人は、怒りによって打ち負かされ、
心を占められたものであって、その怒りの心はやがては命あるものを害ない、
与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽って語り、他人にもそのよう
に勧める。およそこのことが、その人に長いあいだの不利益と苦しみをもたらす
ものである』

 『世尊よ、その通りでございます』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。正しいことを知ら
ない愚かな心は、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

 『世尊よ、不利益を起こします』

 『カーラーマ族の人々よ、正しいことを知らないその愚かな心を持つ人は、愚
かさによって打ち負かされ、心を占(し)められたものであって、その愚かな心は
やがて命あるものを害ない、与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽
って語り、他人にもそのように勧める。およそこのことが、その人に長いあいだ
の不利益と苦しみをもたらすものである』

 『世尊よ、その通りでございます』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。これらのことは善
か、それとも不善か』

 『世尊よ、不善です』

 『これらのことがらは、不善である。これらのことがらは、咎(とが)を持ってい
る、これらのことがらは智者によって非難されている。これらのことがらを行う
ならば、自分自身に不利益と苦しみを招くと自分自身で知るならば、聞き知った
ことや、伝え承けたことなどは、すべて捨て去るべきであろう』

 『また、カーラーマ族の人々よ、そのむさぼり、怒り、愚かさを持たない人は、
むさぼりによって打ち負かされることなく、心占(し)められることのないものであ
り、命あるものを害なうことなく、与えられていないものを取ることもなく、他人の
妻と通じることなく、偽って語ることなく、他人にもそのように勧める。およそその
ことが、長いあいだその人に、利益と幸福とをもたらすものである』 」

 このカーラーマ教はものを信じる根拠をすべて否定しているものである。

 人は何かを信じる場合に権威あるものを根拠として、その証拠であるとするくせ
がある。
 例えば、この経典は歴史があり古いものだから正しいといった偏見や、この
経典を持っているだけで功徳があるとまで信じている人などに対して、お釈迦さ
まは教典に書かれているからといって即正しいということはないと言っておられ
ます。 
 たしかに今ではお釈迦さまが遣したといわれる言葉はたくさんあり、どれが本
当のものなのかまったく分からなくなっていて、まさに教典に頼るなと言われた
言葉どおりになっているのです。

 また、もともと持っている見解(見)に頼るなとも言っておられます。

 日本には日本的な考え方がありアメリカにはアメリカ独自の風習や論理の
組み立て方があるということです。

 ひとはとかくいままで経験したことや古くからある考え方やものの見方に捉わ
れやすく、そのために真実というものが掴みにくくなっているのです。

 また偉い人や肩書の立派な人の言うことは何となく信じてしまうものですが、
外見だけでものごとを判断するのは危険であるとも教えます。
 例えキリストであろうと、マホメットであろうと釈迦自身であろうと、自分たちの
師に頼ってはいけないというのです。
 どうですか、私たちが日頃何気なく行っている行為に潜む過信という落とし穴
を見事に言い当てられているのです。
 私たちは、大勢の人が信用しているからといって、教典に書かれてあるから
とただそれだけのことで、すぐそういうものを信じ、頼ってしまいがちです。
 お釈迦さまは人間が欲望によって考えたことはいずれも間違って伝わってい
くだろうことを看破され、あくまでも自分で確かめよ、と言っているのです。

 このように善、不善は自らが知るものであり、自らが確かめられるものである
と、カーラーマ経で教えているのです。本に書かれているとか、伝統があるとか
、偉い先生の教えといっても、それが真実であるとは限りません。

 あくまでも自分で確かめ、実証を得た上で行うべきであると、仏教は教えてい
るのです。

 仏教には信仰はありません。信仰ではなく、聞いたこと、見たこと、学んだこ
とは自らが自分でそれを実践し、それによって自分の心からの欲望のむさぼり
や、怒りの心が消えてなくなっていくことを体験し、それを実証していくことこそ
が必要なのです。

 仏教には欲望を満足させるものは一切ありません。自分ですべてのことを実
践することによってそのことを確かめてください。その結果、必ず信仰のような
曖昧模糊としたものではなく智慧による確信に変えていくのです。

 ↑以上、引用終わり。

 昔、K野先生にお釈迦様の「法句経」を頂いた事があります。

 その中に「己こそ己の寄る辺」との一節がありました。

 そこが「春風堂」の「起点」となっております。
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by cute-qp | 2008-12-28 00:00

時計の歌 より 中心

 年末特集第4弾は 野口昭子:著 「時計の歌」 全生社より引用・ご紹介致します↓。

 「どんな石でも、石をじっと見ると、石の中心が見えます。中心が分かれば、余分
な力を使わずに、石を動かせます」寺石さんは私の質問にこう答えた。
 
 寺石さんは京都和室の庭を造った庭師である。今、箱根記念館の庭を造り直して
くれているが、三日間で、庭の風情が全く変わり、遠い金時山まで、我が庭に入っ
てきたような気がする。

 私が驚いたのは、五人で裏山の林の奥から一日で二トン前後の石を三つもさんま
たで掘り出し、最も原始的なコロビキの方法で、裏庭と前庭に運び入れてしまったこ
とだ。
 大きな石が、山林を縫うように、スルスルと動いてゆくのを、私は目をみはる思い
で見ていた。

 寺石さんが遠慮深げに語るところによれば、石の中心が見えるようになるには、石
を扱い出してから十年はかかるという。

 私はふと自分が如何にうかつに物を持ち上げていたかを思った。そこで傍らのポッ
トを持ち上げて見た。同じポットでも、手をかける位置で持ち上げる重さの感じが違う。

 一番軽く安定した感じがするのは、やはり重量が平衡する一点なのだ。

 大発見とばかり得意になってオタカ (四男)に言うと、「ママ、今ごろそんなことに
気がついた?」と言われてしまった。

 しかし石の中心が見えても、動かす人の腰がきまっていなければ、石は自由にな
らない。

 整体操法でも、お茶の点前でも、又どんな技芸でも、腰がきまって中心で動作して
いる人の姿は、自然で美しい。余分な力を使わないからだ。

                           ●

 この間、何十年ぶりかで誘われて歌舞伎を見たが、ある俳優が舞台の中央で、み
えをきる型がきまらないのが気になった。

 動作の最後が、ピタッと止まらないのである。

 だから止まることによって生きる裡なる動きや、空間が生きない。先生(野口晴
哉先生)が、「操法の上手下手は、その人の坐る位置と、構えを見ただけで分か
る」と言っていたが、やはり中心のあり方を見ていたのかもしれない。

 最近、新札が出て、その銅板を彫る名人といわれる押切さんの詰が、朝日新聞
に出ていた。かつては「聖徳太子」と「博文」を、今回は「諭吉」と「漱石」を彫ったと
いう。

 銅板に彫刻刀(ピュラン)で、一ミリの中に十二、三本の線を入れてゆくような精
度を要求される彫刻を、どうやって彫ってゆくのかという質問に、「四、五キロの物
を持ち上げる気持で腹に力を入れ、息を止める(「保息」だと思います:管理人)。
 そして静かに、静かに息を吐きながら一点に神経を集中する」と押切さんは答え
ている。

 やはり彼自身の中心が下腹にきまっているからこそ、精神集中の持続が出来る
のではないだろうか。

                           ●

 私が自分に中心があることを自覚したのは、もう十何年も前になるだろうか。排泄
の鈍りから、全身が象のようにむくんで、生死の境をさまよった時だった。

 コマが勢いのあるうちは、まるで静止しているが如く立って廻っているが、一旦勢
いがなくなると、中心がフラフラして平衡を失い、遂に倒れてしまう。
 それと全く同じように立てなくなり、ピノキオみたいな手と足と胴が、バラバラな感
じになって寝込んでしまった。
 そんな状態が二カ月ほどつづいたろうか、或る時、そのバラバラになった手足が
す-っと吸いよせられるように一つにまとまった感じがして、中心に息が深く入って
来たのである。

 私は今でも、その瞬間から自分が生きる方向に向ったような気がしている。

 人間の無意動作を丁寧に観察していた先生は、個人個人にょって動作の中心が
腰椎一番にある人、二番にある人、四番にある人というように、それぞれ違うことか
ら、体癖ということを追求して行った。

 従って、客観的に見れば、私のような上下型の人間は、腰推一番に力が集って
動作している時は中心が安定して全力を出し易いというが、私自身の感覚では、
あの時、す-っと一つにまとまった感じを、体が未だに記憶しているのだろう、中心
というとその感じが蘇ってくる。

 すると、しみじみと″生きているんだ″という実感が湧いてきて、これだけでもう
何も要らないというような気になってしまうから不思議である。
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by cute-qp | 2008-12-27 00:00

島田道男先生の記事より

 年末特集第3弾は太気拳の島田道男先生の記事よりご紹介致します↓。
 
「スタートは気持ち良いと感じるところから」

 気持ち良いという感覚は非常に重要で、そういう感覚は(自分の)外と内を一体に
する接点なんです。

 (中略)

 もっとやっていけば、「呼吸」とか「皮膚感」というものはダイレクトに中枢神経に
繋がっているので、きれいに繋がってしまえば、あっという間に自分自身が変わり
ます。

「感じること」

 例えばバーベルを持ってパンチを打つように、バーベルを持っていなくても同じ
パンチを打つことができますか(春風堂:かつて、K野先生に、「重いモノは軽く、
軽いモノは重く」とか「モノがあっても、なくても同じ様に」と伺いました)。

 そういう練習の方法や、そういう力を出していく訓練の方法、体系があるんです。

 まず、「感じること」、「イメージと身体を一体化すること」、「力を集めること」、自
然と自分の力を感じられるように「手足の各パーツを全部一緒にして力を出すこ
と」などを練習して身につけるんです。

 でもそれをできる人がなかなかいないんです。僕もこの歳でやっとできるように
なったんです。

「歳を取っても神経は鍛えられる」

 本当に鍛えられる方法でやってもらいたいですね。歳を取っても神経はずっと
鍛えられますから。

 神経は筋肉などを緊張させたり緩めたり、また体の中全部を繋ぐものですから。

 例えば立禅して、イメージで水の抵抗を感じます。その抵抗感をどんどん強くす
ることが、きちっと体の中を締める練習になるんです、

 神経だけをきちっと動かせるようにコントロールする練習です。

 筋肉でやると、全部がまとまって動くという状態が無くなるんです。筋肉が動く
というのはあくまで結果の上のことでしかないんです。

 それを鍛える(筋肉)ということは非常に合理的ではないという考え方です。

 (中略)

 動きの中での必要な筋肉をつけていくんです。

 例えば原則的に、肩を、向かって正面から90度開いたら力が無くなるわけで
す。肩は鈍角であって初めて力が出るんです。
 立禅の姿勢というものは、そういうものを全部考えた上で作られているわけで
す。

 結局両手で拳を作ってファイティングポーズみたいに構えたりしても、神経が
繋がっていない状態でやっているとあまり意味がないんです。
 武術をやっている本当に強い人間がそれを見たら、「空間が無い」ということが
わかるので、その場で瞬時に片付けに入られてしまいます。

「動かない状況で体の中はどんどん動く」

 リラックスすることと、武術的な力、「気を溜める」ということは密接な関係が
あります。

 極端にいえばコップの中にある水は、下に穴が空いていれば、いつまでたって
も溜まりません。したがって溜めるには穴に栓をしないといけません。

 武術的な力を使うということは神経を締めたり、動かしたりということです。

 普通に構えた状態で打つのでなくて、抵抗感を感じて動かない状態で体の中
はどんどん動くということなんです。

 そこからバーン!と動くんです。

 (中略)

 「この時はこうする、ああする」というのは、結果としてのやり方です。体の感覚
を早く作ってしまった方が、絶対に早いです。

 無理して外側だけを鍛えても体を壊すだけなんです。
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             「島田道男先生: 太氣拳の実践立禅篇(DVD)」
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by cute-qp | 2008-12-26 00:00

姿勢が問題

● 立ち方はとても重要なので、マスターできるまで何度も練習する。
   まず正しい姿勢をとり、疲れたら体重を片側から反対側に移し、体重がかかっ
  ていない側を休ませる。お尻を突き出したり、膝を固定してはいけない。
   次の段階は、そよ風が畑を吹き渡り麦の根元から穂までを揺らして美しい波を
  つくるように、カラダをわずかに揺らす。
   前かがみになると肺を圧迫し、他の重要な器官を近づけすぎ、背中が丸まり、
  足の付け根に体重をかけて保っていたバランスが崩れてしまうので、前かがみ
  になてはいけない。

● 椅子、ベンチ、長椅子、カウチ、ベットなどは、休息、リラックス、睡眠のために
  つくられているもののはずだが、実際にはそれらがカラダに悪い姿勢を身につけ
  る大きな原因となっている。
   その害はここに書ききれないほど多い。

● 幸い脊柱はわりと容易に矯正できる。
   だからエクササイズで支持された時はいつも背中をできるだけまっすぐ伸ばし
  て、しっかりマットや床につけるようにする。
   起き上がるとき、また床に寝るときには、常に車輪の動きをまねて、頭の中で
  椎骨が前後に揺れるところをイメージしながら、カラダを丸めたり伸ばしたりする。
   こうした動きを繰り返すうちに、少しずつしかし確実に脊柱は誕生時の正常な
  位置戻り、それに応じてしなやかさも増す。

● 正しい姿勢-カラダのメカニズム全体を完全にコントロールできなければよい姿
  勢は身につかない。
   身につけることができればその当然の帰結として、仕草も美しくなる。
   質のよい車のエンジンがスムーズに動くのは、良くできた部品をきちんと組み
  立てた結果であり、ガソリンやオイルの消費も最小限に抑えられて疲弊も少なく
  てすむように、コントロロジーのエクササイズを組み合わせて行えば、自分のカラ
  ダが正しく機能する様になる。
   そこに調和構造が生まれ、カラダ、頭、精神の三つのバランスがよく強調した
  統合体となる。
   そしてその結果、座っているとき、立っているとき、歩いているときにも完璧な
  姿勢が保たれるが、それで使われるエネルギーはたったの25パーセントで、残
  りは緊急時のためのストックとして蓄えられる。 

コントロロジー

● カラダの筋肉の動きすべてを意識的にコントロールすること。
   骨格を構成する骨によって動く梃子の原理を正しく活用すること。
   体のメカニズムについて完全に理解すること。
   そして休息や睡眠中のカラダの動きに、均衡の法則と重力の法則がどの様に
  働いているかを働いているかをよく理解すること。
   その結果をまとめたものをコントロロジーと名づけた。

自分との約束を守る

● 忘れてはならないのは、ローマは一日にしてならず、ということだ。相当な努力
  が実を結ぶためには、忍耐と粘り強さが不可欠なのである。
   何があっても自分との約束を守るという、確固として揺らぎない決意をもって、
  まじめにエクササイズを続けよう。
   ときには「一日くらい休んでも」と思う日もあるかもしれない。
   しかし一瞬の意志の弱さに負けたり、ましてや誤った選択をしたりしてはいけ
  ない。自分に対して忠実であるよう心に刻むのだ。
   巨大な蒸気船のボイラー係が「一日くらい休んだ」ら何が起こるか考えてみよ
  う。すぐにわかるはずだ。
   そんなことが重なればどんな結果になるか目に見えている。幸い人間のカラ
  ダは多少さぼったからといって、複雑な装置が備わった現代蒸気船のように
  すぐに動かなくなったりしない。
   だからといってカラダの限界を超えるような忍耐を強いる、無用で理不尽な負
  担をかけてもいい理由にはならない。特に自分のカラダを痛める結果にしかなら
  ないからだ。
   哲学者アーサー・ショーペンハウアーは「人生の他の利益のために、カラダを
  ないがしろにするのは愚行の極みである」と言っている。
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by cute-qp | 2008-12-25 00:00

 年末特集の第2弾は「ピラティス」の創始者ジョセフ・ピラティス先生の著書「ユア・ヘ
ルス(1934)」、「リターン・トゥー・ライフ・スルー・コントロロジ-(1945)」より引用・
抜粋し、ご紹介致します。

呼吸

● ただ息を吸ったり吐いたりするように言うだけでは何の役にも立たない。
  正しい呼吸法を学ぶことは、ふつうの人が思っているより、はるかに難しいこと
 なのだ。
  おまけに正しい呼吸法の技術を理解し、それを他人に教えられる指導者が少
 ない。

● 呼吸は人生最初の行動であると同時に、最後の行動でもある。

カラダを意識すること

● 人間に背骨があることは誰もが知っているが、この”家”を支える”柱”が、本来
  どおり、まっすぐと成長する正常な状態とはどのような状態かを知っている人は
  ほとんどいない。
   さらに背骨のメカニズムと、このカラダの基礎構造を常に自分の思い通りに動
  かすためのトレーニングを理解している人となると、更に少ない。

● 目指すのは粒々とした筋肉ではなく、しなやかな筋肉であることを常に頭に留
  めておこう。
   大きすぎる筋肉は柔軟性を高める妨げになる。発達しすぎた筋肉は他の筋肉
  の適切な発達を阻むからだ。
   本当の柔軟性を獲得するためには、すべての筋肉が均一に発達しなければな
  らない。

● 全ての筋肉を常に鍛えられることが重要な理由がもう一つある。
   それは個々の筋肉の調和が、すべての筋肉の均一な発達に必ず役立つという
  ことだ。
   小さな筋肉の発達が大きな筋肉の発達をを助ける。
   小さなレンガを積んで大きな建物をつくるように、小さな筋肉の発達が大きな筋
  肉の、そして最終的にはカラダ全体の発達を助ける
   最小限の力で仕事をこなし、最大限の喜びを得ることができるのは、全ての筋
  肉が適切に発達をとげたときだ。

カラダと心のバランス

● 生命力が低下すると、カラダの末端に力が入らなくなる。血圧は正常値をはず
  れるか以上の域に達する。
   頭は温かすぎ、手足は冷たすぎ、精神状態の起伏が大きくなる。これは非常
  に深刻な問題だ。

   もう一度、考えてほしい。誰にとっても考える価値のあることなのだ。

● カラダの理想的なバランスを実現してはじめて、本当の健康とは何かがわか
  る。

人間という動物

● 親は子どもを育てるときに、ひどい間違いを犯している。例えば-
  母乳代わりに人工栄養を与える。
  空腹でないときに食べ物を与える。
  寒くないのに厚着させようとする。
  疲れていないのに眠らせようとする。
  子どもが望んでいないとき、手足を伸ばしたり曲げたりする。
  まだ自分の体重を支える力がないのに、立たせようとする。
  カラダの動きをコントロールできないうちに歩かせようとする。
  望まないのに、椅子に座らせようとする。子どもは床にしゃがむほうが好きであ
  る。
  カラダを動かしたがっているとき、動かさないようにする。
  年長の子どもが木登りや塀から飛び降りたがっても、その自然の欲求を禁じる。
  動きたがっているときに、静かにすることを強制する。
  子どもにはまったく興味のないことを勉強させようとする。その結果、子どもは”無
  計画な”親を喜ばせるため、勉強をしているふりをせざるをえなくなる。
  本当のことを言いたがっているのに嘘をつくよう教える。間違ったことや理解でき
  ないことを、故意に教えることも少なくない。
  健康を守るためという口実で、注射で害になるものを与える。
  自然のエクササイズをさせるのでなく、下剤を飲ませて便秘を防ごうとする。

● メソッドがシンプルで自然であるほど結果はよくなる。

● 本能は人間を含めた動物を的確に導くものである。

● 荒っぽいトレーニングにふけらなければ、強くも健康にもなれないという思いこみ
  は、本当にひどい誤りだが、残念ながらこの考え方は一般社会にしっかりと根付
  いている。

↑以上、引用終わり。

 ご紹介致しましてなんなのですが...今までも様々な引用をさせて頂きましたが、
その「抜粋」とは言え、実は、全てが全て「オススメ」とは思っておりません(笑)。

 実際、個人的に「ピラティス・メソッド」にも幾つかの「疑問点」があります。

 但し、それは個々人の「方向性」や「志向(嗜好)」、「特性」に起因する事もござい
ます。

 その辺も考慮し、素晴らしい先人の「考えを拝聴」し、様々な「物の見方」を取り入れ
、「先入観を捨てる」意味で学ばせて頂いております。

 そして、そこから「取捨選択」しながら「自分作り」をしております。
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by cute-qp | 2008-12-24 00:00

心身の中心-バランス

 治病の根本原理は、疾病によって失われた身体の平衡を回復することである。

 元来疾病と云うことが、身体内部の器官と外部の運動器官との平衡が失われたこ
とである。
 内外の器官が調和平衡して、身心の中心がしっかり定まっておれば疾病は断じて
起らないのである。
 身体は様々なる方法で、どこから見ても中心を保ち得るように出来上った器官で
ある。

 この中心が色々な原因で破れて疾病にかかった場合には、それを個々別々に分
析的に診断して治療するよりは、中心がどういう風に乱れたかと云うことをよく観察
して、その中心の回復法を講ずることが一番である。

 しかし私らの云う中心は身体だけの中心ではない。心身の中心である。

 (次項)

 吾々は吾々の中心生活法の第一段階として、先ず自己の身心をつかまねばなら
ないのである。

 生活の中心は金でもなく家でもない。生命である。そして今の日本人で真の健康
者は数える程しかないのである。吾々は国家のためにどこ迄も中心健康術の真義
を徴底したいと思う。

 (次項)

 生命中心を得れば、続いて家も、経済も、国家も、世界も中心を得て来るのであ
る。
 吾々は、中心生活を知るためには何うしても先ず中心健康術の道に入らねばなら
ない。

脳髄の中心-脳幹

 而して、本書に述べる処を簡単に言えば、『身体の中心と脳髄の中心を、一つに
貫いて身体を鍛練すれば、極小の場所、極小の時間、極小の回数、極小の時日
で、無費用、無機械、無条件で、極大の効果、極大の体力、極大の気力が必ず
得られる。

 (次項)

 一、最も有効なる体育の方法は、一切の精神作用の中心的部位たる脳幹視神
経床の部分と、身体全体の中心的部位たる腰と腹の中央部とを、姿勢、両足の踏
付より起る物理的反動カ、或は横隔膜呼吸より起る正中心腹圧より起る物理的の
力を用いて、一如一貫的に連絡せしめつつ、気合をもって武道全般に通じ、且一
切の体操の基本となるべき型を朝るに走ること。

 二、身体全体の中心部は、腹壁にも無く、腰にもなく、その両者の中央部にある。
故に普通では中心部は感覚的に掴めないが、正しい正中心腹圧を起し、更に正し
い足の踏付から起る反動力の刺激を繰り返して与えて行くと、終にはっきりと正中
心感覚が誰にも分ってくるようになる。
 そして正中心感覚が強くなるに比例して、脳幹、視神経床部の内部感覚が段々
判然して来て、その結果は、最も徹底的な精神統表、思考、感情の助けをからな
いで自然に誰にでも出来るようになる。

 三(省略)

(春風堂:「クレニオ・セイクラル・セラピー(頭蓋仙骨療法:CST)」や気功の「洗髄
経」辺りと合わせてお調べ頂くと面白いかもしれません。

脳幹覚醒の原理

 腰も腹も、充分鍛練できていても、横隔膜が強靱、充分に圧下しなければ、これ
も意味がない。

 腰と腹の力は只支えるだけの力として働くので、脳幹から出た迷走神経の末端
と、交感神経の最大の節と薦骨神経(これも脳幹から出ている)の末端とが…に
なっている身体の重心部に向っての、強大な圧下腹圧刺激は、ただ横隔膜の圧
下によってのみ起るのだ。

 そして、横隔膜の圧下は、強大な逆式呼気が加速度的に行われる時に、完全に
行われるのだ。

 腰と腹に等量の運動感覚が起って、充分な横隔膜の圧下によって起る、腹圧を
支える準備が出来たところに、加速度的の呼気作用と共に、横隔膜がウンと圧下
されると、重心部にグアンと、ぶつけるような腹圧刺激が叩きつけられる。

 そこでその部の迷走、交感両神経の中枢たる脳幹の覚醒が起るのだ。

 脳幹の覚醒が起ると、人体の生理作用-勿論そのうちには精神作用も含まれる
が、統一されるのだ。

(中略)

 全く、腹とか腰とかいうのは、外部感覚的で、実際生産力錬磨の中心は、腹でも
腰でもない。

 腰と腹の中心にある。

 腹部内臓の中心にある植物神経の錯綜部にあるのだ。ただ、そこは強烈な圧下
腹圧刺激によってのみ覚醒するが故に、その腹圧を起す手段として、一定の姿勢
が必要なのだ。

 その姿勢には、腰および腹の筋肉が当然関係してくるだけだ。

 さらに、腰と腹の中心の植物性神経錯綜部の覚醒も、結局それによってのみ、脳
幹が覚醒するからだ。

 目的は、ただ脳幹の覚醒なのだ。

 キャノン博士は、脳幹をパトスの中枢と規定したが、話はもっと細かく進んでいる。
 脳幹の中心はパトスの中枢でなく、むしろロゴスの即ち、大脳半球自体の統一作
用の中枢だ。
 分りやすくいえば、大脳半球のロゴス的働きは、脳幹の作用によって可能なのだ。

 脳幹は覚醒だけでは強くならぬ。無枕、仰臥、夜はぐっすり眠れ。昼間も一切の
観念を棄て、時々脳幹を休ませよ。天才とは自然発生的にこれをやっている人間
にすぎない。
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by cute-qp | 2008-12-23 00:00

 今日は平田内蔵吉先生の著作より、そのお考えを学ばせて頂ます。以下はその
引用です↓。

静座法の医学的点検

 ・・・それは静坐(岡田式静座法)において、両足の裏を深く重ねることの生理的
に有害であることの発見である。

 私の処に来る多数の患者の内に、静坐を長く行われた方に屡々接したので、
特に注意して腎臓の強弱を調査したのであるが、尽く多少の腎臓障害を認めた。
 …次に静坐をしていた人々は、腹が前には充分出ているが、腹を充分引きこめ
る力が足らないことにも気がついた。

 これらは、静坐によって上から下への横隔膜の圧迫によって、気管支、食道、
心臓、腎臓、その他の上から下への伸展弾力は増すが、下から上への挙上弾力
が障害される。

 故に胃腸には大変宜しいが、気管支、腎臓には悪いことがあることを注意すべ
きである。

 現に永らく静坐をつづけ、実に立派な腹をしておられるS氏は激しい喘息にかか
られ、静坐によって癒そうとする努力によって益々悪化するので、私自身も色々
と研究した結果、この点に注意し、腹を凹ませる練習をし始めてから漸次症状は
好転して来た。

 腹式呼吸の主唱者、二木謙三博士はさすがに医者だけあって、よくこの腹を凹
ます点に注意しておられ、還暦を越して益々壮健である。
 また息心調和法の藤田霊斎氏もまた、腹を凹ます点に注意されているが、老い
て益々元気である。
 川合式強健術の肥田春充氏もまた同様で、特に氏は一切の名聞利達を顧ず、
悠々として伊豆八幡野の山奥に隠れていられるが、その生気澱刺たるものがある
という。

 私は岡田先生の静坐は、形式上、以上の二点に欠点があり、生活上は過労に
陥ったという欠点と相まって(特にその欠点が腎臓に影響が強いという点によって
)、岡田先生の犬死が顕れたと判断する。
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                       岡田虎二郎先生

(春風堂:実際、K野先生のアシストしている時、一生懸命やっておられるにも関わら
ず「腎虚証」になってしまわれたケースに数回遭遇致しましたが、平田先生のご考察
そのままでした。)

人体の正中心

 人体の全体的中心は、前では臍と恥骨との等分点であり、後では、第一二胸椎と
仙骨末端との等分点である。(第四-五腰椎間)。横では腸骨側面の中心である。

 この三中心の中心は下腹の内部中心になって、そこから手足の末端までは正常
なる人では等距離である。

 そこには、迷走神経と骨盤神経と、交感神経の最も複雑な交錯がある。また腹部
毛細血管も、この部に最も緻密に分布している。
 外には動物性神経が最も強く発達しているところで、内外共に臍下丹田から、腰
にかけての部位が全身神経及び血管の末梢の中心になっている。
 ちょっと考えると神経の中心は脳髄であり、血管の中心は心臓であるように考え
るであろう。

 しかし、それは人間だけを見て、自然を観ないことから起る間違いである。

 人間と自然との連絡部こそ真の中心である。人間はその中心に於て自然とかか
わっているのである。

 その意味に於て、自然と連続して考え、自然と連続して感じ、自然と連続して行動
するためには、臍下丹田を徹底的に鍛練しなければならない。
 臍下丹田の鍛練というのは、しかし、只腹を固くすることではない。腹を固くすれば
かえって腹は弱ってくる。
 本当の丹田鍛練法は、先づ、全身の経状線(編者註-経絡のこと)、帯状線(帯
状反応部位の境界線)を綜合的に統制して、臍下丹田に於て全身の平衡を採るよ
うに鍛練することと、次に屈線の運動時は腹部に、伸線の運動の時には腰に、うん
と気合の篭る練習をすることである。
 また第三には、臍下丹田と腰には力を入れれば鉄よりも固く、カを抜けば綿よりも
軟くすることが必要である。
 第四に、腰に力の入ったときは、足首、膝、肋骨下線、首、肩、肘、手首がしっか
りと伸びること、腹に力が入るときは、肩、首、鳩尾の力はすっかり抜け、腰、膝、
足首だけはしっかり固定していることの練習が必要である。
 第五に、両方の場合を通じて、眼は、ぱっと見開いて空間を見て、一カ所に視点
を定めないで、しかも眼を動かさぬ練習が必要である。
 またこの際、唇はしっかり結んでいる。以上の練習が出来れば、吾々の心身の
中心はしっかりと定まる。

 この中心の定まっていない人は、心も身体もたえずぐらぐらしていて、心身共に、
病むに到る。心と身体とを綜合発展せしめる中心は、実に臍下丹田である。

 吾々は真の新陳代謝をもこの臍下丹田に於てなすことが出来る。血液の新陳代
謝は肺でもなされるけれども、腹部の全静脈毛細管が、横隔膜の圧下によって完
全に心臓に静脈血を還流して、始めて肺における呼吸作用も意味を生じてくるの
である。

 吾々は自然と吾々人間とを連ねる中心としての丹田を体験しなければならない。
気力ここに湧き、精力此処に興り、真気此処に従い、精気ここよりほとばしるので
ある。また部分的にもわれわれは中心を認め得る。

中心運動法

 中心運動法の中心目的は、勿論心身の中心を得る事にあるが、それ自身として
八つの間接目的を有する。

 それは一、関節の自由、二、動作の敏活、三、気合の充実、四、姿勢の整正、
五、内臓の強健、六、精神の統三、全体の均衡、八、感覚の覚醒、である。
 これらの目的を達するために、中心運動法は、人体に於ける一二の反応線
(管理人:敢えて、解説を加えませんので、興味のある方はどうかご自身でお調
べ下さい)の、一つ一つを鍛練し、全部で一二の運動形式よりなる。
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 その形式は、今迄のあらゆる運動法を弁証法的に整正したものである。

 ・・・これに要する時間は五分。器械は不用。場所は毎時 間は食前食後一時間
を除けば何時でも宜しい。
 回数は一日一回男女共通である。しかし効果は如何なる運動法にも優ることを断
言し得るのである。
 現代の西洋式の体操や、強健術や運動法の根本的欠陥を一言で言えば弁証的
で無いことである。
 一方に偏するか、或いは時間、場所、その他の制限がある。この中心運動法は、
武術の要義に合し、生理、解剖の原則に背かず、心身一如の活動を鍛練する上に
おいて絶好無比の方法である。

 而して吾々は疾病の回復に止らずして、更に積極的鍛練に進むことが出来
るのである。

 平常は、腰に力を入れる時間と腹にカを入れる時間をなるべく平等に行くよ
うに注意し、且時々気合を入れる練習と眼をもって空間を射通す練習をすれ
ば宜しい。
 全て身体を伸ばした時には身体の平均が力学的に得られるように、身体を
屈した時は、気合が腰にこもるように練習鍛練すれば良いのである。
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by cute-qp | 2008-12-22 00:00