カテゴリ:温故知新( 133 )

「舞の研究」

 遠方から神社関係の方がお越し下さっています。

 その腰の低さや進取な姿勢もさる事ながら、

 運動処方に関心を持たれ、真摯に向き合って下さる姿に感心しています。

 そして、今日も施術後、日常生活の動きに加え、

 「舞のこの部分が上手く出来ないのですがどうすれば良いか?」ご質問を頂きました。

 管弦ならまだしも、残念ながら、舞は良く分かりません。

 そこで、舞固有の動きや所作、意味合いを度外視して頂き、

 「体や意識のバランスと運動」の範疇から思う処を述べさせて頂きました。

 すると上手く問題が解決した様で、大変喜んで頂けました。

 やはり、根底にある原理は共通なのだと確認し、

 同時に「地鎮」や「奉納」他に繋がる部分を学ばせて頂きました。

 そんな流れで話は進み...私は舞を教えて頂き、

 そこから、バランス運動的に感じる事をお話する機会を持つこととなりました。

 以前から舞楽の舞を研究したかった事もあり、

 大変有り難く、楽しみにしております。

 (資料)蘭陵王

  舞楽中、最も有名な曲ではないか?と思います。

  見方によって「中国武術の基本功」や

  「反閇(へんぱい)」や「禹歩(うほ)」
  (道教の呪術的歩行法。陰陽道・修験道の呪法の一つとなる。「八卦掌」も。)

  「相撲の弓取り式」に繋がるかもしれません。

  それにしても、龍笛の主管凄いなぁ~~と思ったら 上 先生でした(笑)。

  お急ぎの方は 5:50 辺りからご覧ください。



*************************************************

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
[PR]
by cute-qp | 2017-06-27 00:00 | 温故知新

「クラド二図形」

 今日は一日雨の日...

 そこで家で笛や鳴り物でお稽古をしていました。

 その時、あっ!と想い出した事をご紹介致します。

 皆さんは「クラド二図形」と言うのを御存知でしょうか?

 物体の固有振動を可視化する方法ですが、

 まずは、コチラをざっとご覧ください ⇓

 コレはサイトに飛んで下さい ⇒ 「神が音に託した「指紋」」





 「氷の結晶」で云々はありましたが、

 こちらは動的な分、より活き活きして感じます。

 人やものの内的動き・響きを彷彿とします。

 チベットの砂で描くカーラチャクラみたいですね。

 楽器を演奏したり、歌う事、

 人との会話、交流、踊り、

 祝詞・読経・声明・聖歌...色んな事のその有り様を感じさせます。

 音感にイメージや観想を組み合わせ易くなった気がしますし、

 受け取る響きの感じ方も変わりそうです。

 ある一定のピッチに合わないと像が結ばない様からは、

 日々の心の持ち様も。

*************************************************

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
[PR]
by cute-qp | 2017-01-09 00:00 | 温故知新

「仏の顔」

 仏像彫刻をしていて想うのは、

 技量の上下に関わらず、皆さん、独自の仏様の「顔」を持っていること。

 そして、キャリアの長い方程、

 何となく、その方のお顔や性格に似ている気がします。

 強面の天部の像を彫られていても、

 どこか、お顔が「恵比寿顔」になってしまうある先輩。

 結局、像は自分の心の鏡になっているのかもしれません。

 そう言えば、ある有名な大仏師さんの香合仏が売りに出ていました。

 ただ...由緒書きもあるものの、顔が違う。

 まぁ、工房となると、小物は一からお弟子さんが彫る様ですが、

 師匠銘を入れているのに、これだけ雰囲気を似せていないというのも...。

 それ以上に、どう見ても、良いなあ~と思えない。

 K野先生と「これ作っている人が愉しんでないよね~」って話していました。

 廉価版の機械彫りでも活き活きしているのもあるのに残念!
 (時々、呼び止められることがあります)

 全部出てしまうんだな~。

 それが世に出回るって怖いなあ~って想いました。

 「仏像彫刻に必要なのは上手さより根気、それと人間性」

 そう最初に教えて頂いたのですが、

 なんだか、それを垣間見た気がします。

 像に自分を映しながら、日々、それを観照、

 素直に根気良く、本来の自分を彫り出して行く。

 日々も同じかと。
b0159328_2037765.png

*************************************************

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
[PR]
by cute-qp | 2016-06-06 00:00 | 温故知新

「剣術探訪」

 剣術を学んで少し経った位の頃、

 他流はどんな特徴があるのか?調べてみた時期があります。

 それぞれ、どんな特徴があり、

 総じて、日本の刀法はどんなものか?感じてみたかったからです。

 ざくっと、

  ① 天真正伝神道流系(神道流・新当流・示現流・天流)

  ② 中条流系(中条流・富田流・一刀流・東軍流)

  ③ 陰流系(陰流・新陰流・タイ捨流・直新影流)

  ④ その他、江戸前期までの流儀 と分かれ、

 今日に残る刀法は主に①から③を母体としている様です。
 (この3つを抑えることは参考になりました)

 そして、戦のない江戸以降になりますと、

 各流儀の秘伝はほぼ周知の事実となり、

 各人の個性から取捨選択・再編成されたり、

 貪欲にほぼ完備したり、

 中には「上げて降ろすだけで良い」流派まで出来ました。
 (余りに、純化し過ぎて廃れましたが)

 これを ⑤ 江戸平和期の流儀とします。

 ここまで来ると、結局、大切な基本は共通していて、

 後は個人のエ夫と特性だとハッキリ気付かされます。

 伝書にある、「神伝」などの逸話は一見「宣伝文句」ですが、

 本当にインスピレーションを得た人も少なくないのでしょう。

 そこからヒントを得て、自分なりの工夫から流儀に至ったと思えます。

 それ以後、「防具」や「撃剣」など今日の ⑥ 「剣道」が出て来ました。

 その辺りから、本質や型が完全に乖離し、

 試合の為の技術に変遷して行った様です。

 明治廃刀令以降になりますと、

 剣道の影響も重なり?古流を見ていて?なものが出て来ます。

 刀そんなにゆるゆる腰にささへんやろ~とか、

 それ手振りで刃こぼれするで~みたいな。

 この時期になると写真資料が残っていたりしますから、

 個々人の体つきや構えを拝見するのも勉強になります。

 合わせて、武器や刀の時代的変遷を加味すると面白いです。

 単なる、個人的な愉しみですが、

 好きなものを探訪してみるのもなかなか勉強になります。

 正しいかは分かりませんが...

*************************************************

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
[PR]
by cute-qp | 2016-06-04 13:00 | 温故知新

 「体を使って心をおさめる 修験道入門」 田中 利典 著より引用・掲載します。 ⇓

 修験とは「修行得験」あるいは「実修実験」の略語です。実際に自分の「身体」を使って
修め、行じていく。つまり、自分の身体にありありと「験」をつかんでいく

 それが山伏の修行です。深山幽谷を蹟渉(歩きまわること)し、自らの身心を使って
限界まで修行する。私たちはそれによってさまざまな霊力や験を得ていきます。

 試験とは、勉強の験を試すという意味ですが、同様に修行の験を修めるのが修験なの
です。

 山を歩く。礼拝する。滝に打たれる。冥想をする。これらはすべてが山伏の修行です。

 そしてぜんぶ、身体を使った実践修行です。このように、私たちは理屈ではなく、自分の
五体を通して実際の感覚を体得するということを繰り返し、
それによって心を高め悟りを
目指していきます。きわめて実践的な宗教、それが修験道。そして、大自然の聖なる力、
超自然的な神仏の力(験カ)を修めた者という意味で「修験者」とも呼ばれるわけです。

 また、実践的な修行は、山の中だけではありません。山で験力を獲得した修験者は、里
に降りて、護摩を焚き、地はらいや雨乞いをはじめ、憑きもの落としや安産祈願、病気平
癒の加持祈祷など、人々の願いに応えてさまざまな実践活動を展開します。山の行より里
の行、つまり里の人々の中での活動もまた、山伏の大切な修行実践
なのです。

                          *  *  *

 すなわち、修験道は実修実験、修行得験の道であり、自らの身体を使って修行して、験
を得るところに神髄があります。

 「験を得る」とは、験力や神仏の加護を獲得することばかりではありません。究極は自ら
の心を高めていくこと、心をおさめること
、すなわち菩提心(悟りの心)を得ることにあります。

 たんに頭の中の考えだけで心をおさめるのではなく、身体を使って心をおさめる、ここに
役行者の教えが端的にあらわれているといっていいでしょう。

                          *  *  *

 また、山上参りや奥駈修行などの山修行では、修行者は声を合わせて「懺悔、懺悔・
六根清浄」と、掛け念仏を唱えながら山を歩きます。

 身をもって餓悔し、自己を見つめ、身心を清浄にすることこそ、より良く生きるための
第一歩だと思います。

 では、もう一つの大切なこと、感謝とはなにに感謝するのかというと、いま生かされて
いる日々に感謝する
のです。私たちが生きている日々というのは、とてつもなく貴重です。
二度と訪れることのない、かけがえのない瞬間なのだと思います

  眼が見える、歩ける、物が食べられる、話ができる-「そんなことはあたりまえ」と
思い、不平不満だらけの生き方をしてしまいがちです。しかし、自分かこうして暮らして
いけるだけでもありかたいわけで、そこにさまざまな人たちの支えがあるからこその毎日
なのです。

                          *  *  *

  修験者は深山幽谷を跋渉して大自然と一体となることによって、わが身のケガレをは
らおうとするのです。身・口・意の三業がつくってきたケガレをはらうのです。

 俗なもの、ケガレだもの、そういう自身の罪業は一度死んで、大自然という神仏によっ
て新たな命を授かって再生するのです。そして、生まれ変わった清浄な身心となって山を
出る。それが、入峰修行の極意です。

 また、入峰修行は、一度だけ体験すればそれで良いというものではありません。

 修験者は、毎年、同じ山に入り、同じ道を通って登ります。同じ山に分け入るというの
は、修行には効果的なのです。

 初めての山ではどうしても景色にとらわれますし、道に迷ったりしないかといらぬ心配も
します。ところが、五回、十回と同じ道を登っていますと、道はすべて頭に入っています
から、周囲の景色を見ながらも自然に気持ちが統一されてきます。


 吸う息・吐く息、足の運び、体幹の動き、一つひとつの動作に感覚は研ぎ澄まされてい
きます。余計なことは考えません。ただただ、いまの自分の動き、わが身のいまの心を観
ています。いわゆる「歩く禅」のような境地を体得できるのです。そこに入峰修行の極意
があります。


 何度も同じ道を入峰修行しているうちに、いろいろなことが見えてきます。気づかされ
るのです。「人生どうあるべきか」ということも、自分なりに体得されていきます。


 山中の草木をはじめすべてのものは、自分をことさら主張することなく、他と比べるこ
ともなく、まさに「おのずからあるもの」として、それぞれの時季がくれば花を咲かせ、
それぞれの命をまっとうしている。そういうことが、山の修行では時として「まさにその
とおりだなあ」「ありかたいなあ」と実感されます。

 ⇑ 以上、引用終わり。

***********************************************************

 (他に読んでいる本)
  「霊峰富士の力 日本人がFUJISANの虜になる理由」 加門 七海 著

 (参考)
  「信心決定」
  「実修実験」

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
[PR]
by cute-qp | 2015-06-19 00:00 | 温故知新

「慈悲と自覚」

b0159328_19382188.jpg

 昨年、秋、高野山で「金剛界の結縁灌頂」(「真理は自分の中に」)を受けましたが、

 本日、「胎蔵界の結縁灌頂」を受けて来ました。

 直前に、台風もあり今年は無理かと思いましたが、

 念じに念じ、お陰さまで今日は台風一過。

 今回は、高野山開創1200年で例年以上の出足が想像され、電車を断念。

 KMさんのご協力で車で高野山に向かい、7時前に到着しました。

 ところが、到着時、8時受付に、既に団体さんが30人程並ばれていてドキドキ。
 (春は、宿坊で前乗り、連泊も多いそうです)

 寒い中、震えながら念じて外で待つこと1時間...何とか1班をゲット!!
 (KMさんのお陰です)
b0159328_1942369.jpg

 今回、行事の関係で、会場がいつもより小さい「大師教会」大講堂なので、

 2班なら10時スタート...本当についていました。
 (状況により、次の日に廻される方もおられるそうです。)

 結縁の内容は、基本的に前回同様ですが、

 懺悔文・十善戒を唱えて授戒、そして、三昧耶戒の印と真言を教えて頂きます。

 そして、目隠しのまま曼荼羅の前へ。

 前回の金剛界は曼荼羅の流れのごとく渦巻きの様にぐるぐる回りましたが、

 今回はあっさり到着...曼荼羅の違いなのでしょうか?

 そして「投華得仏」、後、阿闍梨様の前へ。

 手や額に五鈷杵を持たせて頂き、頭頂に香水を頂くと本当にスッキリします。

 スッキリと言うのは気分もそうですし、「自覚」でもありました。

 秋は「決心」、春は「自覚」...この「自覚」って凄く大事だと感じます。
 (映画「マトリックス」って神道や密教的で、その辺を良く描いていると思います) 

 秋に加え、今回、春も受けた理由ですが、

 結縁灌頂が両部(智恵の金剛界・慈悲の胎蔵界)あることに加え、

 金剛界を受けさせて頂いた位の時期から、自分の流れが変わり始め、

 自分自身、次のフェーズを生きようと決心したこと。
 (「539」って数字は過去として、去年にリセットしました)

 その後、様々な「自覚」をし始めていること。

 この所、言葉にするなら「思い遣り」を生き方として実感出来て来たこと、
 (「合気の心身研究会 2015/4/26」「重い槍のやり繰り」

 などが相まってだと思います。 

 金剛とはダイヤモンドを意味し、大日如来の智慧が堅固な悟りを指し、

 何ものにも傷ついたり揺らぐことがないことを表わすのに対し、

 胎蔵は大悲胎蔵生...子供が母親の胎内で育つように、

 大日如来の慈悲により、本来存在している悟りの本質が育ち生まれてくる、

 という意味だそうです。

 と言うことを、このブログを書くに当たって知った程度なんですが、

 何とはなく、この半年に感じさせて頂いたんだと思います。

 その後、奥の院に移動しますが、凄まじい人出に。

 いや~タイミングだったんですねえ。

 ありがたいです。

b0159328_2131226.jpg

 今回は1200年仕様でちょっと頂きものが変わりました ⇑

***********************************************************

 (参考)

 「高野山真言宗 総本山金剛峯寺」

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂

(資料)「十善戒」とは
[PR]
by cute-qp | 2015-05-14 00:00 | 温故知新

「安心立命」

 「いささか化に乗じて以て尽くるに帰し、かの天命を楽しんでまたなんぞ疑わん」

 「どんな変化が起きてもそれに乗って、その変化が起きるに任せよう。

 そして天命を楽しんで、それを疑わない」

 「陶淵明」の漢詩だそうですが、本で読み、ハッとしました。

 この場合、「天命」とは「宿命」と言うより「運命」の様で、

 「それによる変化を前向きに受け入れ、出来うることをなし、

 それに乗って愉しく生きて行くことで幸せになるよ」と語られた気がしました。

 確かに、「変化」は一大事ですが、次の「フェーズ」への以降期かもしれませんし、

 重い腰を上げる「リニューアル」の機会かもしれません。

 「起きた事は同じ」なのですが、そこを「受け入れる」か「拒否する」かで、

 即座に、自分にとっての「幸」・「不幸」が分かれる気がしました。

 身体の不調や様々な悩みも同じなのだろうなと感じています。

 ならば、それを受け入れ、センタリングしつつ、次への飛躍としようと思いました。


***********************************************************

 先日、元研究職の患者さんが「バランス運動療法って研究と同じですね」と仰いました。

 「多面的に物事や現象のありのままを捉えて行く」ことと「それをどう精査して見て行くか」

 この2つが揃っている時、その研究はほぼ良い方向に進むのだとか。

 「では、ご自身の研究なので凄く愉しめそうですね」と申し上げますと

 「どんな風に観察しようか!?」と本当に嬉しそうにお帰りになりました。

 「常に、自分自身が対象で、それを刻々と見つめ、改善して行く」

 この点を括りとして、人それぞれのアプローチがあると思います。

 お1人お1人が自分なりの愉しみを見付けて頂ける様、私も頑張りたいと思います。
 

***********************************************************

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
[PR]
by cute-qp | 2015-01-16 00:00 | 温故知新

「我消~ン」

 「観音力」 玄侑 宗久著 より引用・掲載致します ⇓

 観音さまの特徴は何かといいますと、三十三に変化することと云われています。三
十三という数字は、象徴的な数でありまして、「無限に」という意味です。

 よく観音さまって男か女かって試かれるんですが、無限に変化する以上そんなこと
は問題になりませんよね。『法華経』には阿弥陀卸来の長男とも書いてあるんですが、
同じ『法華経』の第二十五章「観音普門品」には、観音さまは婦女に対しては婦女に
変身して説法すると書かれていますから、結局どちらにもなれるんです。

 (中略)

 それはともかく、観音さまはどうして変化するのかと申しますと、相手に応じるため
です。この応じて変化する力を「応化力」というふうに云いますが、「観音力」というの
は、まさにこの「応化力」です。相手に応じて変わる。相手が望む状態になるんです。
これは、なかなか難しいことですね。

***********************************************************

 さて、観自在菩薩、アヴァローキテーシュヴァラという方の、「アヴァ」というのは、先ほど
申し上げましたように、「Away」という意味ですね。何かから離れて見るんです。では、何
から離れて見るのかなと考えますと、これはおそらく「私」というものだろうと思います。

 「私」とは何かと申しますと、生まれたときに、われわれは「いのち」として生まれます。
「いのち」そのものであるときには、まだ「私」はいないのです。ところが、だんだんとこの
「私」が出来てきます。

 どういうふうに出来てくるかと申しますと、最初、「物心がつく」なんて申しますね。「物心
がつく」というのは、社会心理学の言葉ですけれども、一つ饅頭が載った皿と二つ載った
皿と「どっちがいい?」と試いたときに、迷わず二つのほうに手を出したら、「この子は物心
がついた」と云うのです。

 (中略)

 要するに「私」というものは、生まれた「いのち」がどんどん物心がついて、知恵づいて、
いろいろな見方を学んでいくわけです。そういう学び取った分別・常識から離れて見なさ
いというのが、「観自在」ということです。

 皆さんの中にもそういう見方が蓄積されてきてるでしょう。もう物心ついてますしね、知
恵づいてもいますし、分別もあるわけです。ところが、仏教というのは、分別も捨てなさい
、知恵づいたっていう、そういう知恵も捨てなさい、そこを離れなさいというわけです。

***********************************************************

 「念彼観音力」というお題ですが-そういえば、ぜんぜん、云いませんでしたけども-彼
の観音カを念じて、それが発揮されれば、いろいろと信じられないことが起こって自分の
往む世界を変えてくれると、『観音経』には書かれています。

 「観音力」というのは、自分の中に眠っている他人との共振力、コミュニケーションをする
力ですね。それに何度も呼び掛けるわけです。

 本来そういうものが我々の中にはあるわけですから、それが出て来さえすれば、いろいろ
なことが変わっていく。邪魔してるのは「私」ですから、それを時々、ちょっとどかすようなこ
とをやっていただきたい、ということなんですね。

 どかす、というより、溶かすのなら、なお結構ですね。

***********************************************************

 ⇑ 以上、引用終わり。

 今年、初詣に参って「自分の内を観る」とか「腑に落とす」のが下手だなあと感じました。

 ご挨拶の時、ハッとし、

 慌てて「目を閉じて」、自分を取り戻した感じです。

 「我消」しつつ、丹念に自分を観て行こうと思いました。 

***********************************************************

 (参考)
  「信心決定」

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
[PR]
by cute-qp | 2015-01-06 00:00 | 温故知新

「信心決定」

 古書店で偶然手に入れた本より引用・掲載致します。

 長い引用になりますが、宜しければお付き合い下さい。

 「あなたを幸せにみちびく観音さま―その教えと信仰の秘訣」 羽田 守快 より ⇓

 ご存知の方もあると思いますが、よく「潜在意識の活用法」とか「引き寄せの法則」などと
いわれているものがありますね。そういう人たちがいいたいのは皆、同じことです。仏教的
にいってみれば、これは「阿頼耶識の活用法」とでもいいましょうか。

 たとえ現在、お金が乏しくても「私はすでにお金持ちなのだ」と潜在意識に言い聞かして
いると、自然とお金待ちになれる……というような話です。しかし私は、そういう類の話を
しようというのではありません。

 具体的には「潜在意識の活用法」では、お金ならお金という目標を立てて、潜在意識に
送り込むように、「お金持ちになる」とか「私はお金待ちだ」というように、ことあるごとに自
分に暗示をかけていきます。

 しかし、実際はこれは、そう思うようにはうまくいきません。特に、これはと思うことほど
難しいのです。

 なぜなら、こうした切実な願いは、切実であればあるだけ、同時に焦燥や不満、不足の
想いも心に送り込んでいることが多いのです。人によっては、同時にどす黒い欲望を送り
込んだりもしています。

 潜在意識は目的だけでなく、そうした副産物も、我々が望まなくてもかたちにしてしまう
のです。

 別段「潜在意識の活用法」自体を悪くいうつもりはないのですが、つまるところ、実際に
はそううまくはいかないのです。

 これに対して仏教的にいうなら、「貧困」は現実の経済活動の努力・工夫の不足ととも
に、過去に積んだ良くない異熟の結果でもあります。

 潜在意識にすでに形成された異熟をどうにかしない限りは、これが邪魔をしますから、
根本的にはそう変わりません。

 これに対し「潜在意識の活用法」は完全に無力かというと、そんなこともありません。

 現象面ではいったん好転してきたようにみえます。しかし、相反する強い因縁がある
場合は、大体が落ち着きどころは結局同じようなところへ落ち着きます。

 潜在意識の活用で得られるのは、すでにその人が異熟としてもっているものだけです。

 まだ異熟になっていないものは、良くも悪くも急にこちらから必死に送ったところで、すぐ
には出てきません。

 なにより想念だけで行動を伴わないものは、「異熟」の要因としても極めて弱いのです。

 お経にはこんな話があります。お釈迦さまの一行が、ある貧しい村に差し掛かりました。

 出家者の旅は「行乞」といって、家々の門で食べ物などを頂戴して生活を賄いました。

 旅をする時も、そのようにして旅をつづけます。そこで仏弟子の一人が、「お釈迦さま、
ここの村はかなり貧しいようですから、頂き物をするのは心苦しいです。やめておいては
どうでしょうか」といったそうです。

 するとお釈迦さまは、「いや、貧しいほど施しの行いをせねば、貧しさの囚縁から脱却
して豊かになることできない」といわれ、行乞を行い、お布施を下さる方からは拒まずこ
れを受け取ったといいます。

  不幸や貧乏の原因も、同じく「異熟」なのです。ですから、良い「異熟」を潜在意識
(阿頼耶識)に送り込むと同時に、悪い異熟をなんとかしないとなりません。

 これを解決するには、「反対の行い」をするというのが王道なのです。

 『観音経』では、奇跡を起こす「念彼観音力」という言葉がくりかえし出てきます。下し
読みしますと「彼の観音の力を念ずる」となりますが、しかし、これも必死になって願望
を念ずることではありません。

 なによりまず「観音さまそのもの」を想うことなのです。

 ですからこのくだりは、漢文的にはともかく、実際には「彼の観音の力を念ずる」では
なく「彼の観音を念ずる力」と読むほうが本当は適切だと思います。

 祈る時ですら、人は自分の願いばかりにとらわれてしまいます。でも、願望の次に
観音さまが出てくるのでは、順序が違うのです。

 そういう「弱い祈り」では、本当に大変な事態になった時には観音さまも心の中から
消えてどこかへ行ってしまい、厳しい現実問題に対処できる力にはなりません。

 そのために何かを期待するのではなく、ただ観音さまを思い描いて、日々、経文や
真言などをくりかえし唱えることで、知らず知らずに観音さまそのものを「異熟」として
阿頼耶誠にダウンロードさせるのです。

 最も強い良き「異熟」は、観音さまそのものなのです。

 しかし、そのように観音さまをよく拝んだところで、自分は過ち多い人間であるから、
あるいは過去に大きな過ちがあるから観音さまには受け入れられないのではないか、
というような心配をする方も、中にはあるかもしれませんね。

 でも、心配いりません。観音さまの救済には、そういう差別はありません。

 仏の目からみれば、良い行いも悪い行いも、そのほとんどが迷いの世界での行いで
す。したがって観音さまからみれば、善人も悪人もどちらも同じ衆生で、救済すべき存在
であることに変わりはありません。

 なによりも我々が我々自身を否定したり認められなくては、観音さまを心にお祀りする
ことできないのです。

 ただし、これは悪い行いや過ちがあってもいいということでは決してありません。
そのためには、「懺悔」ということが必要なのです。

 (中略)

 あなたが、あなた自身を認められなくても、たとえば過去に後悔するような大きな心の
傷があったとしても、懺悔文をお唱えして、つとめてわだかまりなくして、観音さまを心の
中にお祀りしましょう。大切なことは我々が良くない存在だから懺悔するのではなく、清
らかな自分を保つためにするのです。

 勘違いしてはいけませんが、してしまった罪や良くない行い自体の責任が、帳消しに
なるわけではありません。観音さまは、人が正しい道にもどり人生を歩むのを、いつも
歓迎してくれるということです。

 どんなに立派な仏像を祀っても、心に観音さまがいなければ何にもなりません。

 そしてそのためには、観音さまが住みやすいように心を清める行いをすることです。
 懺悔文をお唱えするのはそのためです。

 心の中にいつも観音さまがいるようになりますと、ほかの人の目には実に不思議にう
つるような奇跡が起こるのですが、そういった奇跡は信仰の篤い人には往々にして起
こることです。こういう状態の人は「信心決定」した人といいます。

 よく寺社参りなどに行くと、境内に祀られているすべての神仏に、手当たり次第にお
宴銭を放り込んでは願い事をお祈りする、自称「信心深い人」がいますが、あれはい
けません。

 なにもたくさんの神仏をお参りするのがいけないのでなく、かたっぱしから頼んでま
わるのでは、心の中に座る方が決まりません。

 本当の信仰は、そういくつもできません。
 お参りに入ったら、やたら頼み事などするより、
  「お参りさせていただきました。ありがとうございます」
 という感謝のご挨拶のつもりで手を合わせれば、それでいいのです。

 ⇑ 以上、引用終わり。

 年末年始を迎え、私の決心に寄り添い、教え諭す様に来てくれた本でした。


***********************************************************

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
[PR]
by cute-qp | 2014-12-26 00:00 | 温故知新

「身は社」

b0159328_1313819.png

 「新 神社祭式行事作法教本」より引用・掲載致します。

 威儀九容(「礼記」玉藻第十三・二十七章)

 足ノ容ハ重ク  足は身の上部(かみ)をば下に支えたりおもきを重くはこぶべき哉
 手ノ容ハ恭シク 手はことに堅くしむるなゆるぶるなただ左右に程よきにおけ
 目ノ容ハ端シク 瞳のみ上下左右に動かすなかしらも身をも向けてみるべし
 口ノ容ハ止   禍は出でて病は入るという口のしまりをこころしてこそ
 声ノ容ハ静   咳くさめあくびをくびを慎めよ語らむ声も程善きがよき
 頭ノ容ハ直   かしらこそ身の表顕と上にあれ前後左右に標準をとれ
 気ノ容ハ粛   諸々の病これより出づといふ気は平静(たいらか)にもつべかりけれ
 立ノ容ハ徳   立てばやがて心の駒もはしるべし引くな放つな従容として
 色ノ容ハ荘   平静に気をもつときは色もまた温和(おだやかに)これみえわたるなれ

                         *   *   *

 「こころはかたちを求め かたちはこころを進める」

                         *   *   *

 敬礼作法

 天は覆ひ地は載すといふ理りを知りて表る作法(わざ)と知るべし
 経緯(たてよこ)の道をほどよくふみてこそ恭々しともいふべかりけり
 理りにたがはで道をまこともて祈らば神も受けずやはある
 祈るとも神や受くべき真澄鏡(ますかがみ)清く正しくこころならずば
 人によくなずばき事をなさぬ身の何とて神に仕へらるべき
 係りあれば結びありけり何事もはじめ終わりを忘るなよゆめ

                         *   *   *

 礼の心得

 徒(いたずら)に煩わしきは礼ならず単純にして優雅なるべし
 敏捷(とき)はよし軽躁(かるき)は賤し快活(いさむ)とも粗暴(あらあらしくは)為さずも
 あらなむ
 確実になすはよけれど窮屈にせぬこそわざの巧みとはいへ
 何事も円熟こそ好めどもまじる虚飾のわざは忌むべし

                         *   *   *

 姿勢

 外見を正さんとせば内容をととのへむこそはじめなりけり
 手に口に花さかせても山吹の実なき人こそうれたかりけり
 静止して居れば正しく見ゆる身も動きかかれば崩れ初め鳧(けり)
 かたちなるものの容儀(かたち)の正しきは礎(いしずえ)かたき家とこそ知れ

                         *   *   *

 ⇑ 以上、引用終わり。

 最近の礼法の本を見てびっくりしました。

 「温故知新」を意識し、時代に合わせているのは良いのですが、

 礼法本来の基本や姿勢まで西洋化し、完全に形骸化していました。

 いつの間にか武術と離れ、営業戦略が入るとこうもかわるものなのでしょうか?

 先代の著作と比較すると、その差が良く分かります。

 私の中には初心者の頃拝見した、先輩のI畑さんの立ち居振る舞いがずっとあります。

 少なからず、その影響で神道や密教の行法や礼法なども研究しています。

 今回、たまたま、お仕事で訪れる神社の宮司さんとの話のネタにこの本を見つけました。

 素人なので詳しいことは分かりませんが、写真だけでも学ぶことが多いです。

 柔術 竹内流の道歌に

 「身は社 こころは神で 有りながら 外を尋ぬる おろかなりけり」とあります。

 ホントですね。


***********************************************************

 (参考)
  「小笠原流」
  「流儀の本質が~ 変質するぅ~・・・?」

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
[PR]
by cute-qp | 2014-11-09 14:00 | 温故知新