2017年 07月 03日 ( 1 )

「手に宝珠を観る」

 約一年ぶり位の柔術であったと思います。

 通常の柔術と異なり、そのベースに「合気」や「剣術」、

 「呼吸とそれに伴う伸張」を内包している為、

 そこが大きな違い、難しさ、妙になる気がしています。

 それを一番最初に教えて頂く...分からぬまま手に「宝珠」を頂いている感じです。

 その稽古も解説・論理的な稽古でなく、

 稽古とは言え、一回一回、感覚的真剣勝負から生まれるもの。

 など...「受け売り」から一歩出て感じる次第です。

 私が初めて柔術と接した時代、
 
 「呼吸とそれに伴う伸張」はクローズアップされておらず、

 「剣術」との兼ね合いも不明瞭なものでした。

 しかしながら、その時点では、それで「成立」していた為、

 どうしても、それが感覚に刷り込まれていて、

 共通原理として乖離を起こしてしまうのでした。

 そこを再び、柔術を「呼吸に伴う...」+「剣術」で再認識する、構成し直す...。

 昨日の稽古ではそんな機会を得た気がします。

 私の場合、呼吸に伴う丹田感覚と体や意識の伸張が足りませんでした。

 面白かったのが、その問題点に一定のアプローチが出来た時、

 まず、霧が晴れる様に脳的視界がクリアになり、意識が内外に隅々通りました。

 すると、上手く出来る出来ないは別にして、

 どうすれば良いか?どうあるべきか?を感じ、

 また、様々な事への繋がりを俯瞰する事が出来ました。

 人により、何に感じ、どの順で本質に向かうか?は様々ですが、

 この現象は大きな事の様で、

 実に、「丹田(肚脳)的盲目」状態であったなと思います。

 その様子を文章表現するのは難しいのですが、

 衝脈の伸張と丹田との繋がりが大きな問題で、

 極論、インターフォンの断線、ブレーカー落ちみたい(笑)。

 そこに気づけたのは「三脚の稽古」(「修行門へ」)と

 KM君から的確な指摘を貰ったからで、

 優れた兄弟弟子に感心・感謝です。 

 断線工事を経て、

 古人の言う「神力徹眼心」「西江水(の学び)」などの表現は凄い!と改めて思いました。

 今は感覚的に響き・見えて来ます。

 ただ、これらの文章や言葉を

 我々は知らず知らず「理論」や「解説」的に受け取ってしまう。

 これってどこまでも「感覚的発露」なんですよね。
 (ご本人は「ユリーカーっ!」って気持!?)

 「書いておいたから後は頑張ってね!」...どっかで聞いた言葉を古人も語ります。

 その為の自主・相対稽古メニュー・ブログと言う位置づけかと...。

 そして、そこまでが「準備」、そして、ここからが本番...まっこと遅まきながら。

 後の味付けはどうなっていきます事やら。

 じっと手を観る。

*************************************************

 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
[PR]
by cute-qp | 2017-07-03 00:00