横田観風 「万病一風論」より ”風を観ること”

 本日は、横田観風先生 著 「万病一風論の提唱」より「風を観ること」を引用
ご紹介致します↓。

風を観ること
                                                            万病一風論の眼目の一つは、「こころ」に風を観ることであった。

 風とは、二章で述べた如く、正常に機能した無の状態からの変位であり、しかも
、体内において、ダイナミックに変化流動している。未だ混沌として何も病気として
感じられない状態から、明確に病気として自覚できる段階のすべてを含む。

 風は、病気そのものであり、生命そのものと直接かかわりを持ち、我々人間の
思惟を超越したところではじめて感得しうる故、「こころ」に観ずるものであった。

 従って、風は、いくら五感の一つである眼で見ようとしても見えない。

 これまで、常に「観」と「見」という文字を使い分けてきた。それには理由がある。

 剣聖、宮本武蔵は『五輪書』の中で、「観の眼つよく、見の眼よわし。」と書いて
いる。これについて、大森曹玄著「心眼」によれば、

 「観の眼というのは、深くものの実相、真相を見破るまなこ、物の内側に秘めら
れた本質を見抜く眼である。見の眼というのは、科学的知識というか、物の表面
を見る眼、物の表面に表われた現象を見る限である。」という

 これによれば、「見」は、肉眼、或いは、思惟により頭で理解する眼であり、
「観」は、まさに「こころ」の眼でみることになる。

 武蔵は、剣道において、この観の眼によってのみ、その極意に達することが可
能である故、この方の眼、即ち「心眼」の修行が、最も大切であることを力説した。

 剣のみにあらずして、あらゆること、特に求道においては、最も重要なことである。

 禅の摂心において、私がはじめて風を観た因縁についてはすでに二章において
記した。

 風を観るとは、どういうことであろうか。

 自然科学的知識によれば、風は、空気の粒子が移動することにより起る。我々
人間の肉眼では、風の実体としての空気の拉子を見ることができない。
 しかし、ひとたび風吹けば、木々を揺がし、葉を落とし、土ばこりをまき上げ、水
面に波をたて、更にヒユーヒューと音を出して、我々に目に見えぬ空気の存在を
気づかせてくれる。  

 従って、風を観るとは、五感によって感じられる現象を通して、その背後にある肉
眼では見ることのできない世界を観ると言うこともできる。

 肉眼で見ることのできない世界とは、「大いなるもの」の世界である。医学的立場
に限れば、「本来の生命」である。
 しかし、宗教や哲学、その他民族、習慣などの相違によって、「空」「仏性」「神」
「道」「霊」「大宇宙」「天」「気」等々、さまざまに表現されている。
 「大いなるもの」は、広大無辺、永遠無限の存在である故、絶対平等の世界であ
り、人間の思惟による認識を超越した世界である。

 故に、風を観ることは、肉限によって見ることも不可能なだけでなく、頭でいくら理
解しようとしても無理なのである。

 それは、東洋的「坐」による内観を行ずることを基本(管理人です:「坐」について
は、座ると言う行為でなく「内観する姿勢」と捉えれば如何でしょう)とし、日々求道
的生き方を実践して、はじめて自覚、体得できるものである。

 これ以上の説明は、本来出来ないのである。不立文字、以心伝心の世界である
故、師のもとで修行し、自得するしかない

 ↑以上、引用終わり。

 しかしながら「私の所に勉強に来る外国人や西欧医学の医者、ならびにほとんど
の東洋医学者でさえ「なぜそうしなければならないのか?」の理由が理解出来なけ
れば、安心して修行し、実践できぬと」と言う理由やを以て横田先生はこのご本を
奏上されたそうです。

 お陰様で、先生の貴重なヒントを私達は垣間見ることが出来ますが、結局は「自得」
するしかないのだと思います。

 その為に、どんな事が「必要十分条件」になるのか?...その観点から「お智慧
を拝借」して行きたいと思います。
[PR]
by cute-qp | 2008-11-24 00:00