野口晴哉 「晴風抄」より ”感じること”

 今日の「智慧に学ぶ」は、野口晴哉先生の「晴風抄」より引用させて頂きます。これ
は、先生が書かれ、話されたものの中から、整体論の基本的な考え方に触れるもの
を抜粋した内容になっています↓。

 健康の原点は自分の体に適うよう飲み、食い、働き、眠ることにある。そして、理
想を画き、その実現に全生命を傾けることにある。
 どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る。これが判らないよ
うでは鈍っていると言うべきであろう。
 体を調え、心を静めれば、自ずから判ることで、他人の口を待つまでもあるまい。
旨ければ自ずとつばが湧き、嫌なことでは快感は湧かない。
 楽しく、嬉しく、快く行なえることは正しい。人生は楽々、悠々、すらすら、行動すべ
きである。

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 最初に感ずるということがある。そして思い考えるのである。

 あらゆる行動の出発は感ずることによってなされる。考えているうちは行動にはな
らない。

 右か左かトータルサムをとっても、どっちにしても五十歩百歩である。行くか戻る
か、いつまで思案していても、思案で決まるものではない。

 感ずることだけがそれを決める。

 然るに多くの人は思い考え工夫することを尊んで、感ずることのカを感じないで
いる。
 如何にドレスの形を工夫しても、その室が散らかっている人には美しい形のドレ
スはできない。

 美を感ずる人にだけ美は生ずる。

 最初にあるものは感ずるということである。最後における力も亦感ずるということ
なのである。感ずることを失った生活は死だ。

 生きておらねば新しきものは産まれない。感ずることがなければ、知識が如何
に豊富でも、その記憶の倉が満ちていても、新しきものは産めない。

 生きておらねば死んでいる。死んでいるものに創造はない。

 感ずることを豊かにする為にはその頭のなかをいつも空にし、静かを保たなけ
ればならない。頭を熱くしていては感ずるということはない。
 自分の顔を考えていても、利害を思っていても、毀誉を想っていても、感ずる
ということはなくなってしまう。

 感ずるということは頭ではない。感ずるということは生命にある。

 感じているが行動できないという人がある。感じていないのである。もし感じて
できないことがあれば、それは頭で感じている時だけだ。頭を空にして感じたこ
とは、そ打まま行動になる。

 頭の中の先入主に感ずるということを乱されていることがよくある。その上その
先入主的考えを感じることと間違えていることがある。

 しかし、感ずるということは頭から生ずるものではない。

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 健康を保つことは、どんな方法であっても、そのことが美として感ぜられねば、自
然とは言えない。技術が真に行なわれれば美である。
 それ故、薬が苦く、注射が痛いことは間違っている。腹を割いて盲腸を切り取るこ
とも美しく感ぜられない。治療することが美しい現われであるのに、何故その手投
が美しく感ぜられないのだろう。

 自然でないからである。

 自然は美であり、快であり、それが善なのである。真はそこにある。しかし投げ
遣りにして地っておくことは自然ではない。
 自然は整然として動いている。それがそのまま現われるように生き、動くことが
自然なのである。

 鍛練しぬいてのみ自然を会することができる。

 懐手で知った自然は自然ではない。頭で造った自然はもとより人為のものであ
る。

 ↑以上、引用終わり。

 「自律神経」云々が一般的になるずっと前に、野口先生を始め、古人は「予想外」
な心身との付き合い方を良く知っていたのですね。

 そして、それは「知識」や「技術」の問題でなく、先ず「感じる」事が大切で、その
「主人公」は自分自身であると仰っている様に私は感じます。

(参考)
 「お医者様も”予想外” ~自律神経失調症~ 」
 「身体の声の聴く ~自律神経による治癒反応~」
 「先ずは自分が変わる」

 今日はおまけがございます。宜しければお付き合い下さい↓。
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by cute-qp | 2008-08-14 00:01 | 温故知新