「静中の動」

 「歩法」の稽古と並行して行っているのが「坐の稽古」です。

 一見、「動く稽古」に対する「動かない稽古」ですが、

 「体内操作」の見地で見れば、

 「動中の静」と「静中の動」...互いに相関関係にあります。

 「合気以前」や「居合」の稽古に組み込み、

 「肚の座り」や「頸の伸び」、「肩の浮き落ち」、「関節の折れ」、

 「下半身の締め」、「重心」など...色々、観察点があり、

 ヨガの「プラランビク・スティティ(基本姿勢)」が取り難い場合、

 その別法、前段階の稽古にもなります。

 また、どことなく、座り込んで行かないと感知できない、

 行法的ニュアンスも感じ、色々、試行錯誤中です。

 他の稽古以上に、日々、どんな感覚が出てくるか分からない、

 地味ですが、気付けば面白い稽古です。

 ここに参考にしている、平田内蔵吉先生の「正坐法」を確認します ⇓。

 腰の張り方

  腰は第一腰椎から第五腰椎まですべて前に張る。

  そのために臀部をうんと後方に置き、会陰部が丁度支へる右足裏の中心(足心)に
  合ふやうにする。

  腹は腰をうんと張り、脚、足の構へが正された結果、自然に腹壁が張るに任せ、
  努責して腹を張らぬやうにする。

  但し、足、脚、腰の構へが正しければどんなに気合を入れてイキンでも努責には
  ならぬが無理はしないこと。

  普通には第五腰椎のところだけを、またはせいぜい第四、第三腰椎あたりまでを
  腰と思ってゐるが、腰とは第一腰椎のあるところ(鳩尾の後方)からが腰である。

  臀を出すだけでなく第一腰椎のあるところをうんと張って決めるのである。

  この第一腰椎の左右に腎臓がある。腰の張がここまで及ばないままで腹に力を入
  れると、たとへ胃腸その他には効果があっても、長年月のうちには腎臓、脊髄等に
  害があらはれて、他は健康であるのに死を早めることがある。

  腹も出、胸も落ち健康で肥満してゐて突然亡くなるのはこの第一腰椎の張りの足り
  ないためである。ここが決らないためである。

  ここが決らないでも気合呼吸をしないでおれば大して害もないが、眞に心身統一の
  気合を入れ、又労働や肉體の大活動をするためにはここの決定が第一である。

  ここは丁度、第一胸椎から尾骨端に到る躯幹脊柱の正中點にあたる。

  但、第一腰椎を張り出すと、鳩尾が突出し易い。鳩尾は肝臓のあるところである。

  肝臓部の突出は呼気を止めて正中心部への垂直腹壓の下降を阻止する。そで腎臓部
  を前に張りつつ肝臓部を下に落すといふことが、一番肝腎なこととなる。

  この肝腎要めの決定には腹前に組んだ両手の手首をしっかりと弾力をもたし両肘を
  定めて下に引く心持で決め、首肩の境を落し、首は第一第二頸椎のざかいでぐっと
  立て、さて、鳩尾(胸骨劍尖突起)と臍の上を落すのである。

  腰は人體の牀(ゆか)である。

  牀のない人體は崩れる。素直でないと腰が曲る。竹は素直だから伸びる。

 胸の落し方

  (前略)胸を落すとは肩を落すことである。

  肩の付け根が痛い程腕を下に引く心持で胸を落すのである。
 
  但し前屈しないで胸を落す。即ち肩を落すのである。

  頭を使ふ人は自分では知らないでゐて肩背胸、首に凝があるものである。

  肩を落すとは凝を除くことである。胸を落すのは胸を狭めるのでなくて呼吸を
  楽にすることである。

  安心した時誰でも胸をやれやれと撫で下す。あの胸の下し方である。

  胸を張って威張るといふことは弱いといふことである。

  肩を落すといふことは肩の重荷を下すといふことである。

  苦労を荷ふ肩は小さく縮まり重任を負ひうる肩は大きく伸びてゐるのである。

 首の立て方

  肩をぐつと巻き落しに落すと頤が前出しやすい。

  それを防いですつと首を正しく立てるためには首全體を耳根乳嘴突起部に
  吊り上げる心持で首をすーつと上に伸ばす。

  肩のつけ根は下に引っばられるに加へて上へも引つばられることになるから
  一時は益々痛むことさへあるが、やがで首が正しく立つやうになれば首肩の
  凝はすつかり無くなる。

  首を立てるといふことは禮の體が決まることである。

  最敬禮をする時にも首がぐつと伸びてゐないと禮の態をなさないものである。
  首立つて眼が定まる。

  眼の利く鳥は皆首を立て大観する人は首を立てる。

  首を立てるのは視線を水平にして最も遠く良く観ると共に、
  眼の開閉ともに、深く内観しうるためである。

  たとへ下體の正が保てない時も首を立て肩を落とすことはできるのである。
  又寝る時も無枕仰臥で熟睡しうるやうになるのである。

 頭の支へ方

  頭は足、胸、腰腹、胸肩、首が決まればあとは視線を水平の空間に放てば
  自然に正しく支へられる。

  かくして脳髄の眞中心部(脳の幹部)腰腹の眞底の正中心部をつらねる線は
  地平面に対して垂直線となつて足心を貫く。

  この時おのづからにして精神の統一と身體の統一がさらに統一されて人格體驗
  の統一が内直観しうる。これが眞に國體に捧げうる人體の體驗である。

 ⇑ 以上

 ここまで無駄なく的確に解説出来るんですね!凄いです。

 個人的に、やればやる程、歩法に還るので興味深いです。

 【付記】

  稽古し、平田先生の本を読み返してみると、

  「へり下る(下座の心)」と言う表現が沢山出て来ます。

  以前の私には真に理解できなかった表現です。

  唐突ですが、「登山」と「登拝」の違いは、

  その名の通り、「祈り」があるか?です。

  これだけで同じ山に登る事が大きく変わって来ます。

  単に「宗教的」と想わないで頂きたいのです。

  初めは、無信心、意味不明、形式的であったとしても、

  それを意識し、形からでも繰り返す内、

  身体や心が次第に様々に変化、成長し、

  自分が思っていたイメージや思い込みを越え、

  自然と「祈り」や「懺悔」、「へり下る」身体や心になってきます。

  所作が美しくなって行くのは、多分、その結果です。

  なので、実は登拝や修行に限った事ではありません。

  平田先生も仰る様に、

  「へり下らないと出来ない体勢・心境」があり、

  それは、自身で体験しないと説明のしようがありません。

  しかし、心の持ち様が身体に与える影響から、

  それは想像がつきます。

  そして、そうした稽古や山の行は

  里の行(日常生活)に行かせてこそ本物。

  主観的には、「画竜点睛」...日常に「眼」が入った気がしました。

  その辺りを的確に突き、

  可能な限りの表現や鍛練法を以って、

  日常に伝えんとされた平田先生に驚きを隠せません。

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 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2017-01-26 00:00