「神力徹眼心」

 昨夜、長歌にした「鶏に習いて」(「鶏歩登拝」)の中

 「心”徹”して」と表現した部分について。

 当初、「通して」や「透して」と書き掛け、

 タイプする瞬間、手が「徹して」と打ちました。

 「合気以前」、「鎮魂帰神」、「西江水」...

 共通原理の輪の中へ、ズコン!と「神力徹眼心」がハマった瞬間でした。

 ここに、再度、「神力徹眼心」を確認してみます ⇓ 

 夢想願流松林無雲「願立剣術物語」より

  中央と云う事有り、心の中央也。右へも寄らず、左へも寄らず、
  上へも下へも付かず、本より敵にも付けず、太刀にもたれず、
  十方を放れて心の中道を行く事也。

  像有る処を計らねば、心の中道にてはなし、敵味方の間、太刀
  を打ち合う間也。

  間は空中なれば像なし。

  此の像なき所を推量才覚を以て積む事成るまじきぞ。

  一尺の間或いは、一分一毛微塵の内にも、その大小に随って中央有り。
  一刹那の内にも中央有り。(中略)唯中央を取る事肝要也。(後略)

  (前略)先に其の侭の慾の備え、ろくにして項の筋を張り、
  肩の付け根より落とし下げ、前え押しかけ、両手を成るほど指延ばし、
  木尺を継ぐ如くにして、骨のくさり動かさず。

  亦、手を延ぶと及ぶとの二つ有り。

  敵の方へ計り長く及び延びたるにはあらず、それは身の外也。
  身の内を―杯に滞りなく指延ばす也。延ばせば向こうへ行くより外なきぞ。
  心も身も手も所作も少しも弛みなく、物に一杯の気に叶う剣術を性の位と云う也。

  縦ば明鏡の如く敵の所作、我が心の鏡に向かうと等しく所作の廣明なる事、
  ものを云わんと思へば我知らず舌の自由をなす如く也。

  或いは、長さ竹の本を少し動かせば、竹の末、葉の先まで一度に動く如く也。

  ⇑ 以上、引用終わり。

 ここまで表現出来るか?と言う位、懇切丁寧、恐ろ凄い内容です。

 今にして思えば、心眼・実修の上で読めていなかったと言う事です。

 「手を延ぶと及ぶとの二つ有り」

 「身の内を一杯に滞りなく指延ぱす也」

 「心も身も手も所作も少しも弛みなく、物に一杯の気に叶う」

 「長き竹の本を少し動かせば、竹の末、葉の先まで一度に動く如く也」


 など、その「妙」をまた妙なる表現で表し、

 「唯中央を取る事肝要也」

 「先に其の侭の體の備え、ろくにして項の筋を張り、
  肩の付け根より落とし下げ、前え押しかけ、両手を成るほど指延ばし、
  木尺を継ぐ如くにして、骨のくさり動かさず。」

 など、具体的表現が付記されています。

 どうしても、この具体的表現に注目が行きがちですが、

 夢想願流は、この「妙(神力徹眼心)」...あ・り・きのものと私は感じています。

 この名文を読んでいつつ、

 「頸がすくむ」、「猫背」、「骨盤がばがば」、「手を固める」など、

 内容と異なる実際が現れるのは、

 そこを踏まえ、本当に、感じ、検証していないからかもしれません。

 そして、これを違った感性・角度・味から語ったもののひとつが

 新陰流の「西江水」や「神妙剣」と位置付けています。

 お陰さまで、稽古において「本当に大事な部分は何か?」が続々と見え始め、

 都度、師の想いに触れる想いです。

 ここに「神力徹眼心」を再確認し、

 その上で「水」を検証致します。

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by cute-qp | 2017-01-25 00:00 | バランス運動療法・調整法