「信心決定」

 古書店で偶然手に入れた本より引用・掲載致します。

 長い引用になりますが、宜しければお付き合い下さい。

 「あなたを幸せにみちびく観音さま―その教えと信仰の秘訣」 羽田 守快 より ⇓

 ご存知の方もあると思いますが、よく「潜在意識の活用法」とか「引き寄せの法則」などと
いわれているものがありますね。そういう人たちがいいたいのは皆、同じことです。仏教的
にいってみれば、これは「阿頼耶識の活用法」とでもいいましょうか。

 たとえ現在、お金が乏しくても「私はすでにお金持ちなのだ」と潜在意識に言い聞かして
いると、自然とお金待ちになれる……というような話です。しかし私は、そういう類の話を
しようというのではありません。

 具体的には「潜在意識の活用法」では、お金ならお金という目標を立てて、潜在意識に
送り込むように、「お金持ちになる」とか「私はお金待ちだ」というように、ことあるごとに自
分に暗示をかけていきます。

 しかし、実際はこれは、そう思うようにはうまくいきません。特に、これはと思うことほど
難しいのです。

 なぜなら、こうした切実な願いは、切実であればあるだけ、同時に焦燥や不満、不足の
想いも心に送り込んでいることが多いのです。人によっては、同時にどす黒い欲望を送り
込んだりもしています。

 潜在意識は目的だけでなく、そうした副産物も、我々が望まなくてもかたちにしてしまう
のです。

 別段「潜在意識の活用法」自体を悪くいうつもりはないのですが、つまるところ、実際に
はそううまくはいかないのです。

 これに対して仏教的にいうなら、「貧困」は現実の経済活動の努力・工夫の不足ととも
に、過去に積んだ良くない異熟の結果でもあります。

 潜在意識にすでに形成された異熟をどうにかしない限りは、これが邪魔をしますから、
根本的にはそう変わりません。

 これに対し「潜在意識の活用法」は完全に無力かというと、そんなこともありません。

 現象面ではいったん好転してきたようにみえます。しかし、相反する強い因縁がある
場合は、大体が落ち着きどころは結局同じようなところへ落ち着きます。

 潜在意識の活用で得られるのは、すでにその人が異熟としてもっているものだけです。

 まだ異熟になっていないものは、良くも悪くも急にこちらから必死に送ったところで、すぐ
には出てきません。

 なにより想念だけで行動を伴わないものは、「異熟」の要因としても極めて弱いのです。

 お経にはこんな話があります。お釈迦さまの一行が、ある貧しい村に差し掛かりました。

 出家者の旅は「行乞」といって、家々の門で食べ物などを頂戴して生活を賄いました。

 旅をする時も、そのようにして旅をつづけます。そこで仏弟子の一人が、「お釈迦さま、
ここの村はかなり貧しいようですから、頂き物をするのは心苦しいです。やめておいては
どうでしょうか」といったそうです。

 するとお釈迦さまは、「いや、貧しいほど施しの行いをせねば、貧しさの囚縁から脱却
して豊かになることできない」といわれ、行乞を行い、お布施を下さる方からは拒まずこ
れを受け取ったといいます。

  不幸や貧乏の原因も、同じく「異熟」なのです。ですから、良い「異熟」を潜在意識
(阿頼耶識)に送り込むと同時に、悪い異熟をなんとかしないとなりません。

 これを解決するには、「反対の行い」をするというのが王道なのです。

 『観音経』では、奇跡を起こす「念彼観音力」という言葉がくりかえし出てきます。下し
読みしますと「彼の観音の力を念ずる」となりますが、しかし、これも必死になって願望
を念ずることではありません。

 なによりまず「観音さまそのもの」を想うことなのです。

 ですからこのくだりは、漢文的にはともかく、実際には「彼の観音の力を念ずる」では
なく「彼の観音を念ずる力」と読むほうが本当は適切だと思います。

 祈る時ですら、人は自分の願いばかりにとらわれてしまいます。でも、願望の次に
観音さまが出てくるのでは、順序が違うのです。

 そういう「弱い祈り」では、本当に大変な事態になった時には観音さまも心の中から
消えてどこかへ行ってしまい、厳しい現実問題に対処できる力にはなりません。

 そのために何かを期待するのではなく、ただ観音さまを思い描いて、日々、経文や
真言などをくりかえし唱えることで、知らず知らずに観音さまそのものを「異熟」として
阿頼耶誠にダウンロードさせるのです。

 最も強い良き「異熟」は、観音さまそのものなのです。

 しかし、そのように観音さまをよく拝んだところで、自分は過ち多い人間であるから、
あるいは過去に大きな過ちがあるから観音さまには受け入れられないのではないか、
というような心配をする方も、中にはあるかもしれませんね。

 でも、心配いりません。観音さまの救済には、そういう差別はありません。

 仏の目からみれば、良い行いも悪い行いも、そのほとんどが迷いの世界での行いで
す。したがって観音さまからみれば、善人も悪人もどちらも同じ衆生で、救済すべき存在
であることに変わりはありません。

 なによりも我々が我々自身を否定したり認められなくては、観音さまを心にお祀りする
ことできないのです。

 ただし、これは悪い行いや過ちがあってもいいということでは決してありません。
そのためには、「懺悔」ということが必要なのです。

 (中略)

 あなたが、あなた自身を認められなくても、たとえば過去に後悔するような大きな心の
傷があったとしても、懺悔文をお唱えして、つとめてわだかまりなくして、観音さまを心の
中にお祀りしましょう。大切なことは我々が良くない存在だから懺悔するのではなく、清
らかな自分を保つためにするのです。

 勘違いしてはいけませんが、してしまった罪や良くない行い自体の責任が、帳消しに
なるわけではありません。観音さまは、人が正しい道にもどり人生を歩むのを、いつも
歓迎してくれるということです。

 どんなに立派な仏像を祀っても、心に観音さまがいなければ何にもなりません。

 そしてそのためには、観音さまが住みやすいように心を清める行いをすることです。
 懺悔文をお唱えするのはそのためです。

 心の中にいつも観音さまがいるようになりますと、ほかの人の目には実に不思議にう
つるような奇跡が起こるのですが、そういった奇跡は信仰の篤い人には往々にして起
こることです。こういう状態の人は「信心決定」した人といいます。

 よく寺社参りなどに行くと、境内に祀られているすべての神仏に、手当たり次第にお
宴銭を放り込んでは願い事をお祈りする、自称「信心深い人」がいますが、あれはい
けません。

 なにもたくさんの神仏をお参りするのがいけないのでなく、かたっぱしから頼んでま
わるのでは、心の中に座る方が決まりません。

 本当の信仰は、そういくつもできません。
 お参りに入ったら、やたら頼み事などするより、
  「お参りさせていただきました。ありがとうございます」
 という感謝のご挨拶のつもりで手を合わせれば、それでいいのです。

 ⇑ 以上、引用終わり。

 年末年始を迎え、私の決心に寄り添い、教え諭す様に来てくれた本でした。


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 バランス☆運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2014-12-26 00:00 | 温故知新