「止観と観自在」

 「悟りの教科書」 荒 了寛・苫米地英人 著より引用↓。

 荒 まず心を静かに見つめ、そこからこの世間における自分の存在を見きわめ、しかも、そこ
    にとどまらずに自在に行動を起こすことができるようにする。
    そのための修行方法が止観なのです。

 苫 止観はつねに一体のもので、止と観とを別々に考えてはいけない。そこが大事ですね。
    これを日常生活の次元の話に置き換えると、自分自身の現状、あるいは問題点を
    きちんと認識する。でも、そこで反省ばかりしていては何も起きない。かといって行動
    さえすればいいと勘違いして、無闇に動き回っているのも愚かなことである。

 荒 サンスクリット語では「止」はサマタsamatha 「観」はヴィパッサナーvipasyanaと言いま
    す。
   サマタは外界に左右されず、心を静止させることであり、ヴィパッサナは世の中を正しく
   見ることとされます。初期仏教でもこのサマタとヴィパッサナは重要な瞑想法として修行
   の中に組み込まれていました。

 (中略) 

 荒 しかし、それ以前の考え方ではこの二種の瞑想法は別種の修行法だと考えられてきまし
    た。
   だが、智顗は「そうではない。この二種の瞑想法は二つにして一つなのだ」と『摩訶止観』
   の中で教えています。

 苫 それが先はどの「暗証の禅師」「文字の法師」に対する批判につながってくるというわけ
   ですね。

    この「暗証の禅師」や「文字の法師」というタイプの人はいつの時代にもいます。
   「自分はいったい何者なのだろうか」と世界中を当てもなく旅をしている、いわゆる「自分
   探し」の旅をしている人たちは、暗証の禅師です。
 
   この人たちは「私は何がしたいのだろうか」と自分に問いかけたりはしない。それよりも
   「こことは違うどこかに行けば、私は生まれ変われるはずだ」という根拠のない期待をも
   って世界中を旅行したり、あるいはボランティアに参加したりしています。

   彼らはアクティブに動き回っているように見えますが、朝から晩まで修行に没頭さえして
   いれば「やがては悟れるはずだ」と勘違いしている僧侶の姿とどこも変わりませんね。

   それとは逆に、インターネットなどで情報収集をして、いっぱしの情報通ぶってはいても、
   現実には何の行動にも移せない、いわば「引きこもり」的な若者も多い。こういう人た
   ちは情報を集めれば集めるほど、ますますその情報に縛られてしまって、身動きが取れ
   なくなっているわけで、まさに文字の法師です。

   本当に必要なのは先ほど荒先生が「観自在菩薩」でおっしゃったように、自分自身を見る
   ことと、自由自在に行動できることが両立させられるようにすることですね。

 荒 すべての人間には悟りに達することができる潜在能力があるわけです。その自分の中
   の「仏性」なり可能性なりを引き出すための手段として智顗は「止観」という方法を私たち
   に教えてくれているのです。

 ↑ 以上、引用終わり。

 「暗証の禅師」や「文字の法師」を経て、「門前の小僧」に。

 40にして、ようやく、自分やその立ち位置の様なものを見る。

 じぶんとの付き合い方が分かってきたのだと思う。

 60歳位まで、様々なじぶんを検証・実験する。

 以降は、検証しつつ、じぶんを濃縮?スリム化?する、予定。

バランス運動療法(Balance Movement Therapy)春風堂♪
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by cute-qp | 2011-07-28 00:00