「人間の感覚」と「触覚の本質」

 中央アート出版「新アダムスキー全集2」より↓

 一般人が信じているところによれば、人間は五つの感覚、すなわち、視覚、聴覚、味覚、
嗅覚、触覚を持っているといわれており、そのいずれも他の感覚から独立して働く能力を
持つことを私たちは知っています。私たちは聴覚、味覚、嗅覚などを用いないで物を見る
ことができますし、酸っぱいものと甘いものを区別するのに聴覚、視覚、嗅覚は必要あり
ません。
 耳、目、口などの助けをかりなくても鼻はりっぱに働きますし、音声は聴覚器官によって
感受することができますので、他の三つの感覚は不要です。以上はみな四つの感覚器官
がそれぞれ独立して働くことを立証しています。

"感じ"を生み出す触覚は基本的生命力

 そうすると、いわゆる第五感とは何でしょうか? 私たちが視覚、聴覚、嗅覚などでや
ったように、もし人間から触覚を取り除いたら、ただちにどんな結果になるでしょうか?

 その人は無意識になり、触覚が回復するまでその状態をつづけるでしょう。この状態に
あるあいだも、各感覚器官は肉体の中にあって完全な状態を保っています。こうして目、
鼻、口、耳などは無傷のままにあるにもかかわらず、それらは見たり嗅いだり味わったり
聴いたりしません。そして、もし触覚が完全に肉体から取り除かれたら本人は死にます。
ですから、四つの感覚器官のどれもその存在を触覚に頼っていることはまったく明らか
です。

 さて、四つの感覚の一つ、たとえば視覚を取り除いたとしましょう。これは肉体内の生
命力に影響を与えるでしょうか。まったく与えません! これをさらにふやして二つ、三つ
、または四つの全部を取り除いたとしても、その人はなおも意識ある生き物です。実際
の感覚器官は機能を果たしていないのですが、本人は喜び、悲しみ、安らかさ、苦痛な
どを意識していて、さまざまの精神的な波動を感じたり、それらを完全に描いたりできま
す。

 テレパシーが働くのは、このいわゆる第五感(触覚)なのです。したがって私たちが触
覚なるものは肉体的感覚だという考えに固執するならば、テレパシーの定義はまちが
っており、科学は軌道をはずれていたということになります。想念伝達、透視、予知、そ
の他不可視の知覚作用にたいしてどんな言葉を用いても、これらの働きは心の協力に
よって脳を通じてあらわれる触覚要素のまったく正常な機能なのです。

 一般に理解されているように、第五感とは触覚から起こる感じでぱなく、接触によっ
て起こる感じであると多くの人が私に注意してくれましたが、これは以上に述べた理論
を変えるものではありません。四つの感覚器官のどれもこの触覚の能力、すなわちそ
れなくしては知覚性のない意識的接触の要素を持っているからです。触感というものは
肉体の神経反応ですが、一方、触覚は基本的な″生命力″です。″感じ″というものが生
み出されるのは、この″生命力″の意識的接触によるのです。

接触の法則で知覚が生じる

 私たちは比較の法則によって物の動きを知ることができるのですが、これは実際に
は接触の法則、すなわち一つの現象面と他の現象面とのあいだの関係です。私たち
はある物体に指で触れるとき、その物体の印象を感受しますが、これは大きな振動と
小さな振動の接触によって作り出される圧力のためです。同じように、私たちは目の
網膜または耳の鼓膜でもって光または音の波動と接触することにより、目に見える
波動または耳に聞こえる波動を受けます。また大気の分子と肉体の細胞との接触に
より、大気の状態や温度の変化に気づきます。これらの例によって、触感というものは
接触による神経反応にすぎないことがわかります。feeling とtouchは事実上同義語
ですから、いわゆる第五感を意味する場合には(原書では)feelingという語を用いつ
づけることにしましょう。

 この触覚の要素、すなわち自己表現のために意識的な状態において反応を示す
能力をもつ英知ある力、いいかえれば、存在する波動の接触すべてを記録する要素
を四つの感覚器官のどれも持りているがゆえに、私たちが認めねばならないのは、
テレパシーはたしかにいわゆる感覚器官の正常な働き以外の何物でもないという点
です。なぜなら受信経路の如何にかかわらず、想念が知られるようになるのは触覚
が経路になっているからです。

 疑問が起こるかもしれません。触覚を持たないで生まれたごくまれな人たちをどの
ように説明するか。この人たちは肉体的苦痛を感じないで、重傷を負っても苦しまな
いではないか。これは本人たちのテレパシーの能力を低下させることになるのでは
ないかと。

 絶対にそんなことはありません。これは神経組織が不完全なためにひき起こされ
たまったくの肉体的状態であって、その人が一本の指が欠けたまま生まれた場合
と同様に、”生命力の働き″すなわち真実の触覚とは何の関係もないのです。視覚、
聴覚、味覚、嗅覚などの感覚器官は右のような人々にも正常に働いています。人間
が苦痛を記録する度合は神経組織にかかっていますから、その組織が鋭敏であれ
ばあるほど苦痛はひどく感じられるのです。

 この不幸な人々は、うらやましい存在というよりもむしろ哀れむべき存在です。な
ぜなら、なにかの異常な状態が起こったとき、自然の配電盤である脳に警報を打電
するために、肉体の全体を通じてたえず見張っている小さな歩哨(神経)たちは私た
ちの忠実な友であるからです。

 たとえば手の中に破片が突き刺さったとしましょう。この歩哨すなわち神経はたち
まち大騒ぎを始め、周囲の組織に異分子が圧力を加えていることを脳に伝えます。
そこで破片を取り除いて圧力をなくしますと傷は治ります。しかし神経が正常な機能
を果たしていないために脳がこの情報を受けとらなかったとしたら、肉体が異分子を
追放しようとしてそのあたりを化膿させるまでは、本人は破片の存在に気づかないか
もしれません。しかしそれは肉体の状態ですから、この神経の感覚の欠乏はテレパシ
ーの感受力とは何の関係もありません。それは瞳の色がどんな色であってもこの感
受力との関係がないのと同様です。

 人間は小宇宙です。したがってその見地から人間を分析してみることにしましょう。

 ↑以上、引用・掲載終わり。

 アダムスキーの著作との出会いは本当に偶然でした。なぜなら、「全く興味のない
分野」でしたので。

 しかし、本屋のある書棚を観て、とても気になったので立ち読みし、一目見て驚嘆。

 以前、素晴らしい著作として、 「ウィリアム・W・アトキンソンの著書について」(セロン・
Q・デュモン:ヨギ・ラマチャラカ...全て同一人物)ご紹介しましたが、それに匹敵する
「簡潔・的確」...感動し、慌てて、K野先生にお話しました(ちなみに、この方も戦前・戦後
にかけての方です)。

 今だからその内容の凄さが分かりましたが、多分、数年前なら「普通過ぎて」分から
なかったと思います。

 多くの「訳本」の傾向ですが、「邦題」は全く頂けません(しかし、訳者である久保田
さんの翻訳は他にない程、「ピカイチ」だと断言いたします!)。

 そのままでは「売る為のインパクトに欠ける」からだと思います。

 直訳すると「テレパシー開発法」...でも、「感応力を開く」と読み替えてみれば極め
て「普通」な事と理解できます。

 「感応」とは、例えば、お母さんが「子供がお腹の中でどんな風に育つか?」その
仕組みは理解できなくとも、その成長を刻々と感じ、出産する事が出来、生まれた
赤ちゃんが「今、何を欲しているのか?」その心で感じる事...それそのものだと思
います。

 ですから、ただ「見る・聞く・匂う・味わう」のでなく、人は、その根本に「触覚」を
持ち、「感応」しているのだと述べている訳です。

 以前、上原大阿闍梨様にも「病の軽重は関係なく、”手当”する事ですよ」とのお
言葉を頂いた事があります。

 この場合の「手当」も「触覚」=「感応」だと思います。

 興味をお持ちの方は全集の「2・3」をお勧めします(纏めとして「7」。ちょっと深入り
するなら「11・12」をお勧めします。それ以外は私の許容範囲を超えていて分かりません)。
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 バランス運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂

(参考)
 「生命における体験の記憶はその身体の細胞内に記録される」
 「小春日和 10/08/13」
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by cute-qp | 2010-08-15 00:00