無意識の要求を見詰めて

 相手を理解するということは相手の言葉だけにたよっては出来ないのである。相手を理解し
なければただ自分が言いたいことを言っているだけに終ってしまうものである。それ故むずか
しいのである。相手を理解するということは相手が言葉に出せないでいる無意識の願望を読み
とることであるが、人間が無意識に示す動作にはその内心の願望がいつも表現されているもの
である。自分で全く意識しない願望迄がヒョッと顔を出す。それ故無意動作を丁寧に観察すれ
ば人間の理解は深まるのである。もっとも右手を動かしたとか、右顔が縮んだとか、無意に動
かしたのであってもその動いている部分の動きだけを見ていたのでは駄目であるが、その人間
の動作する前に動くもの、即ち内心の要求の動きを見つめておれば、その無意動作に表現され
ている無意識の願望をつかまえることが出来る。一つの咳ばらいを聞いただけでも。内心の動
きは判るものなのである。しかし無意動作は常に有意動作の中にかくれている。その有意動作
の背後の無意動作をつかまえ出すようにならないと相手の願望をつかまえることは出来ない。

 美味しそうな湯気の立っている皿の上の御馳走に思わず眼をやる。その眼の動き方と速度を
つかまえれば、空腹なのか、貧しい生活をしていたのか、武士は食わねどなのか、その区別は
そう難かしくない。一パイのコーヒーを出されても、惜しんで出したか、厭や厭や出したか
、心からもてなすつもりなのか位のことは誰にでも判る。この誰にでも判ることを丁寧にくり
返して観てゆくと、他人に判らないようなことが段々判ってくる。これが指導技術を修めよう
とする人の先ず心がけたい問題なのである。

 無意識の観察は、無意識動作のそのものを先ず観なければならない。例えば、有意動作の
最中にでも無意動作をその中に見て取らねばならない。しかしそれは 瞬きをしたとか、ク
シャミをしたとか、そういう生理的な反射運動を見ていることではない。心の中の要求の表現
としての無意動作を見究めることが必要なのである。ヒヨッと浮んだ冷笑とか、大声で笑って
いるうちに動く不安の影とか、本当らしいことをいっそいる中に嘘を交える表情とか、恥かし
いとかいって袂を噛むその動作その上に出る芝居気とか、ともかく無意動作そのものを見るの
ではなく、無意動作に表現される人間の中味の動きを掴まえ出すのでなくては指導する人の観
点は確立しない。もっとも吾々の如く体を通じての生活指導をするものにとっては、瞬きでも
クシャミでも、緊張でも弛緩でも、その変化でも速度でも、重心の移り変りでも 何でも一切
見逃す訳にはゆかない。

 坐っておじぎをしたときに尻がもち上る。それからでも性器異常とか、不決断の性格とか、
強情だとかいうものを見出ださなくてはならない。ちょっと坐った膝の右が引っ込んでいると
いうことから腰椎二番の左移動、そこから便秘や心の不安を見つけなくてはならない。たゞ普
通の意味での指導ということを行なうのなら、無意動作そのものが要求の表現であるから、そ
の無意識動作に潜む人間の要求さえ引っ張り出せば、その行動をリードすることはむずかしく
ない。

 音楽と一緒に足でトントンと拍子をとっておれば、リズムに敏感な性質を持っているとか、
体をこういうようにゆさぷっておればメロディックだとかいうことはすぐ判るだろう。そこか
らこの人は行動的だとか、あの人は思索的だとかいうことを引っ張り出せないことはない。た
ゞ恥って坐るというだけでも踊りをやっている人は色気を振りまくし、茶をやっている人は格
式を見せる。当人は意識しているのではないが、そういうことが身に着いてしまっているとで
もいうのだろう。平素の生活をそこから考えられないこともない。

 飯を食うのに、肘を脇にくっつけたままで食べておれば、貧しい生活か淋しい心が連想され
る。たゞ坐って食べるというだけの中にでも、その人の生活全体を物語る無意動作がある。し
かしそれだけではない。無意動作の背後には人間の表現以前の要求とか、無意の願望とか
が連なっているということを見逃してはならない。

 意識的な面からだけ見れば、已に結婚している女性なら特に他人の眼をひくようなおシャレ
をする必要はないのであるが、美しくありたい、多くの人の眼をひきたい無意願望が生ずると
、ベタベタ塗ったり、シナをつくったりする。しかも当人すらそれを格別意識していない。或
る夫人はしきりに亭主のアラを見つけては、それを理由に亭主を寄せつけない。昼は美しく魅
力ある女房であるのに、夜は冷たい人形になってしまう。もともと恋愛結婚だから嫌いな訳で
はない。その証拠には離縁は承知しない。しかも不感症だと亭主はいう。明らかに妊娠恐怖の
徴候であるが、誰にも判らない。当人にも判らない。ただ亭主の厭やなことだけが眼に入り、
気に障る。そして亭主を嫌いだと思い込むに至る。本当は亭主が嫌いなのではない。亭主の行
為の資らす結果が困るだけなのであるが、当人には区別がつかない。た£結果としての現象、
「亭主が嫌いだ」としか感じない。その見当ちがいから思わぬゴタゴタが生ずるのである。

 同じ坐るのにでも、踊りをやる人は色気たっぷりに坐り、お茶をやっている人は堂々と坐る。
踊りやお茶をやっているからそんな風に坐ると,いうことが判れば何でもないのだが、知らな
い人はとんだ恵いちがいをしないとも限らない。又同じ踊るにしても、表現以前の願望を蓄え
ておれば、その踊りにも濃厚なゼスチャーが無意に現われるだろうし、お茶をやる人が他に示
したい何かがあれば、その堂々さにも別の表現が加わるであろう。

 このように人間の無意動作は、人間の内に潜んでいるもの、人間が動く前に動くものを知る
のに良い手がかりとなるものである。お化粧が濃くなる背後には無意の願望がある。この無意
の願望は何によって起こるぃのか。こう突きつめてゆくと、人間の本性という可きものに突き
当たる。これを掴まえてしまえば、人間の無意動作の意味は余りむずかしく考えなくても判る
のであるが、まアその前に表現に至る道筋を確かめておこう。

 ↑以上、野口晴哉 著 「人間の探求」より引用。お

 患者様を拝見する際、ざっと全体のバランスを拝見します。

 そして、特に気になった所や印象的な所からその動きを見て行きます。

 どうすれば、動きの悪い場所がバランスを取り戻し、良い動きになるだろうか?...動きを
確認しながら施術して行きます。

 その内に、「どうしてそうしてしまうのだろう?」「動かざるを得ないのだろう」と言う
想いが身体中を巡り始めます。

 施術しながら、ちょっと自分も「その様に」動いてみたり、イメージしたりしてみます。

 何とはなしに浮き上がって来る「無意識の要求」があります。

 身体の歪みもさることながら、その「要求」を見据えて施術すると、患者様の「独白」に
居合わせる事が多いです。

 それは「気付き」であったり「確認」であったり「反省」であったりします。

 その瞬間、患者さまの心身の方向性が「ベストバランス」に向くのを感じます。

 一方、「無意識の要求」の延長線上に患者様の「夢」や「希望」を見出す事も少なくあり
ません。

 私がその「夢」や「希望」を知り得るはずもありませんが、関わらせて頂ける可能な範囲
で、そこに至る「補助線」や「点線」を引いてみます。

 それが上手く出来た時、ただ「愁訴を治す」と言う事に「前向きな指針」が出て、気持ち
も明るく、生き生きとした想いが施術室にも溢れます。

 「治療」にも「運動処方」にも様々なスタイルがあると思いますが、現時点で、私なりの
「バランス運動療法」はこんな感じです。

 ひとつひとつ丁寧に感じ 観察したいと思います。

 バランス運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2010-07-23 14:00 | バランス運動療法・調整法