心と肉体は別のものか

 私達の心はつぎつぎと願いごとを起こします。しかし、いかに何かをしたいと願っても、または
それをやろうと強く決心したとしても、その心だけで実行できるものではありません。また、ある
事柄を知っていることと、それができるということは別問題なのです。すなわち、できるためには
その条件が必要です。それは願望や意志に身体が従うということであり、心理的要求に生理作
用が一致するときはじめて心の願いを実行することができるのです。一方、私達は善悪を多少
なりとも知っています。それは、それについて教えられているからです。

 しかし、それを実行することは、むずかしいことです。なぜむずかしいのでしょうか。それ
は頭で知っていることが身についていないからです。

 ヨガ行法はこれらの心の願いや頭だけの知識を、身体の願いとし、身体の知識とするために
行なうものです。いかに心で正しく生きようとか悪をなすまいと決心したとしても、身体の働
きがその実行に伴う苦痛に耐えられなかったり、その願いに逆行するような働きが身について
いれば、この心の願いをはたすことはできないでしょう。自分の身についているものだけが自
分のほんものであり、力であり、また、自分の支配者(業)でもあります。身についているも
のだけが自分の上に生きているものであることを理解して下さい。知っているだけでは死物で
あり、自分の力ではありません。なぜ教育や宗教が死んでいるといわれるか、それは「知」の
ほうに重点をおきすぎているからです。

 ここで、何か身についているかが問題になります。ヨガ行法は正しさを身につけて自分をほ
んもの(真実のもの)にするのが目的です。どうすれば身につくか、それは実行あるのみです。
私達の生活は実行の継続であり、いま行なっていることが身につくもとになるのです。今が
「私」を造りあげていくのです。「心の欲するままになしてしかも法をこえない」これがほん
ものの境地(成道)で、ただ単に、善を願い悪をおさえてはいるが、潜在意識がそれに従わな
いのであれば、これは真実ではありません。無意識のときに、心はこの潜在支配者の方向に
働いてしまうのです。また、たとえ意識的であるときでも潜在支配力が強力な場合には、二者
間に闘いが起こり、ここに心身の分裂的混乱が生ずるのです。

 私達の身体は常に心身一如になって働いています。すなわち心理状態と生理状態がひとつ
になって働いているわけです。つまりそれが感情で、感情は心の働きと身体の働きがひとつ
になっています。
 
 恥ずかしいと思うのと赤くなること、恐ろしいと思うのと青くなること、これらは同時に行
なわれます。だから感情は心であると同時に身体なのです。

 ↑以上、沖 正弘 著:「ヨガによる人間回復への道 Ⅱ」より引用・掲載。

 時折、自分の泳ぎや身体の動かし方を録画します。

 一生懸命練習して「如何にも、その様に」動いている積りで録画をし、いざ、その姿を見る
と目も当てられない...と言う事が未だにあります。

 「自分の意識や想い」と「身体の動きや行動」の「連動・一致」...そこが有る程度こなせな
いと「意識」をキチンと使えません。

 さて、この「不一致」が「愁訴」や「故障」、「悩みの種」にもなるのかもしれません。
 
 更に、元々の意識や行動に「歪み」や「矛盾」がある場合を「癖」や「習慣」と呼べそうです。

 そして、「どうして?そうしてしまうのだろうか?」を手繰ってみますと、「想い癖」や
「思い込み」、「防御反応」がふ~っと浮き出て来る事が多い様です。

 そう言った、身体と心の「息詰まり」を全体のバランスや呼吸から観察し、読み取り、その
バランスや方向性、視点を変えるか?

 「瞑想」も「施術」も同じですね。
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 バランス運動療法(Balance Movement Therapy) 春風堂
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by cute-qp | 2010-06-28 00:00