型で知る「有」と「無」、「自分」

 今夜もTHE HIDEN 10/4より成瀬正春先生と苫米地英人先生の対談を引用・ご紹介致
します。今日が最終回です↓。

- 確かに読者も、競技系の武道から非競技系の古武道に変る人は多いですね。

苫米地 どんなにガチンコって言ってもスポーツでしょ? ルールがあって時間制限があって
    、体重制限があるんだから。やっぱりそこには本来の武術との違いが、厳密なライン
    がある。だってただ相手を殺すんだったら原爆が最高の武技ですよ。どんなに稽古し
    たって原爆にはかなわない(笑)。

成瀬 あとは細菌兵器ね(笑)。

苫米地 そういうなかで最後はその原爆さえやっつけられる方法もある。結局、その原爆の
    発射ボタンを押す奴、その権力を持つ奴を支配すれば良いわけだから。それが情報
    空間を支配するということ。だから物理空間のなかの技を徹底的に覚えていくこと
    も良いし、それが役に立つこともあると思うけど、最後は情報空間に持っていかな
    ければならない。私白身、いまも情報空間で武術をやっているわけですよ。原爆の
    ボタンを押そうとしている奴と闘っているわけだから。「やめろ!っ」て。これ武
    術でしょ? ただやっぱりそれが最初のうちは判らない。まず体をそこまで使い込
    んでいないし。ただいまの方法で体を使い込んで、判るようになっている時は大体
    歳を取っている(笑)。それをもっと若い頃にヨーガとかで、そういう世界がある
    ということを判り変る。それは武術がこれからの社会のなかで、役割を持ってる重
    要な要因ですよ。

- 情報空間に対するアプローチの方法という意味ですか。

苫米地 徹底的に人殺しの方法論だからこそ、その逆が凄くよく判る。それを中途半端に排
    除してしまったスポーツだけをやっていると、お爺ちゃんになってからしか判らな
    い。その方法論として、武術は人間の身体がどういう風に出来上がっているかとい
    うことを徹底的に研究し尽くしているわけですからその工夫がある。その為には五
    つの型を覚えたら、今度は五つの型を破る方法を徹底的に考えないと。型を上手に
    なることだけ考えていても駄目ですよ。如何にその動きに対して対抗するか。それ
    は自分がその型から自由になることでしょう。出来ないで「自由だ!」と言っても
    それは自由じゃないんだよ。出来てこそ、そこから越えられるから自由なんですよ。

成瀬 その通りですね。

苫米地 自由と言うのは「~からの自由」で。まず何かがないと駄目。最初から自由は判ら
    ない。無を定義するには有がいる。

- 禅的なお話ですね。色即是空ということでしょうか?

苫米地 いや認否は無でも有でもなくその上位であるから面白いんですよ、逆に言うとね。
    だからプラーナは空だし物質も最後は空。粒子論的に言うと全く同じで、同じ抽象
    度は有と無という関係にありますから。

- 難しいですね。

苫米地 まあ、自由を知る為にはまず三つでも五つでも型をまず徹底的に教えるしかないわ
    けですね。徹底的に型を学ぶから有が判り無が判る。だから型からの自由を自分で
    徹底的に追求する。そして最後に今度はその両方を超越しなければならない。そこ
    で抽象度が違ってくる。型を知らない人に、空は教えられないんですよ。型を教え
    て初めて焦が判る。焦と有の両方が判って初めて一つ上の抽象度が判る。それが認
    否。プラーナもそう。プラーナは実は空なんだよ。でも最初はプラーナは有として
    教えてあげなければいけない「あるぞ!見えるだろう!」と。で、最後に、「いや
    判らない」と。もともとは無でもあるわけですから。ただ過程として、まず有にし
    てあげて、「ほら有でもあって無でもある」と「だから空である」と知らせる。で
    最後に「物質があると思い込んでいるでしょ?いや物質も有るとも言えるし無いと
    も言える」だから「空なんだ」と。実際に物理空間では真空は作れないんですよ。
    素粒子に成れたり成れなかったりする。結局、物質と無は同じなんですよ。だから
    「色即是空、空即是色」というのは間違っている。「色即是無、無即是色」なんで
    すよ。その色と無の両方の上位が空だから。だから般若心経は書き換えなければい
    けない。

- う~ん。

苫米地 恐らく漢語を訳した人ではなく、当時のインド人が判っていなかったんだと思う。
    それは現代科学で釈迦の時代の哲学を見るとちゃんと言っていますから。だからま
    さに武術の型にはそういう役割が存在している。人間の体という有を型を通じて
    徹底的に知る方法がそこにあるわけですから。だから型を徹底的に学ぶと無が判
    る。いかにそこから自由になるか。体という有から自由になることで無を知る。
    それが出来るようになると越えられる。その時に初めて本当に強い武術家に成れ
    る。

- 型に意味があるというお話でホッとしました(笑)。

苫米地 それは型には意味があるよ、当たり前ですよ(笑)。型が無ければ武道が成り立た
    ないから。道具があるということはその理想的な使い方がある。そうでしょ?剣が
    あるんだからその一番良い使い方がある。それはもう徹底的に研究し尽くされてい
    る。武器が自分の手だったら手というものを武器にする方法は研究され尽くしてい
    る。その集大成が型で、それに意味が無いと言っているわけではないですよ。それ
    に囚われてそこに止まることに意味が無いと言っているわけで。


成瀬 だからキーワードとしては瞑想力なんですよ。

苫米地 絶対そうですね。

成瀬 瞑想力というのは自分自身を見つめる能力、いま自分がどうなっているのか。自分自
   身を色んなパターンで、中から見たり外を見たりして。自分を見る能力がつくと、人
   を見る能力もつく。


苫米地 だからヨーガをやった方が良い、最低限。やっぱり四千年続いているだけのことは
    あって、システマティックに出来上がっていますよ。

成瀬 気功もそうだけどね。

苫米地 気功もそうで、まさに密教修行というのは、チベット密教とか、だから全ては悟り
    に至る道ですよ。それが目的だったら武道を幾らでもやっていいよ。

 ↑以上、引用終わり。

 剣術を学んだのは20歳後半の事でした。

 当時、まだ記憶力があり、若手でもあったので、先輩方が7年かかって覚えた型を約2年
で詰め込まれました。パッと見て直ぐ「当てぶり」が出来、記憶出来たんですね(今は朝
食べた食事も忘れる始末:笑)。

 しかし、全く、その「中身・内容」について消化する事が出来ず、完全に「パニック」
...つい最近まで色々、悩みました。

 そうする内に30歳を超え、40歳に至って「全く覚えられなくなり」、自然と「その意味」
についてゆっくり味わい・工夫する様になりました。

 「型」は「文化財」でもありますから、後世に残す義務があると思います。

 ただ、単純に「博物館」に飾るものでもない?とも思います。

 「本」や「型」は極論、先人・賢者の消化の結果...いわば「排泄物」...ただ、なぞって
も余り意味がない。

 自分なりに先人の歩んだ道を「追体験」してみて、それを自分の中に写す(再生する)
事で、長い時空を飛び越え、先輩たちが言いたかった事が蘇って来たり、自分なりに消化
出来たりするのではないかな?と感じています。

 最近、書で「臨書」を再開したのですが、「型」は自分を写す「鏡」かもしれない...
と感じています。
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by cute-qp | 2010-04-02 00:00 | 温故知新