型をくり返すのは最悪!?

 今日はTHE HIDEN 10/4より成瀬正春先生と苫米地英人先生の対談を引用・ご紹介致
します↓。

- 先生ご自身も武術の経験があるそうですね。

苫米地 ええ、家がそうでしたから。爺さんがもともと柔術家で三船十段の弟弟子で。柔道
     八段で東京オリンピックの審判委員長も務めて。葬式は武道館でやったんですよ。
     私も子供の頃からありったけ武術、柔道、剣道、空手、古武道をやりましたよ。全部
     人れれば45年位やってます。

- 今でもお稽古されているんですか?

苫米地 やっています。稽古という感じじゃないですけどね。

- 武道の稽古というのは同じ型を繰り返すことが基本とされていて、その様式を日々くり
   返すという部分が宗教等の修行に近いように思えます。ある意味でそこには先生のご
   専門でもある、ある種の自分を洗脳するメカニズムがあるのでしょうか?

苫米地 それは最初だけですよ。同じ型を繰り返すのは武道の稽古としては最悪なんですよ。
    やればやるほど負けるから。基礎体力を作る為には良いけど、武術の本質は人間の
    持って生まれた動きの特性から如何に自由になるかが武術の稽古。同じ動きだけ
    やっていたら100パーセント負けますよ。スポーツじゃないんだから。スポーツは
    ルールがあって、皆が1200CCのエンジンでレースしている時に、私が5リットルの
    フェラーリを持ち込んで勝ったら怒るでしょ?

- レギュレーションが違いますからね。

苫米地 武術にはレギュレーションもないし、体重差もない。武器の種類も自由なんだから。
    勝てば良い。それが今は「突きはこういう形ね」「蹴りはこういう形ね」と全部決めて
    おいて、そのルールの外にあることは「覚えちゃいけない」と。あとはそのルールの
    なかで一番上手な人間を決めましょうと。それを武術だと思っていたら本当に武術を
    知らない。武術の本質は人間の筋肉と骨の形から生まれてしまう動きを、如何に超越
    するかですから。

- そのもともとある動きから脱却するための手段として、先人は型というものを作ったんじゃ
  ないか?と思うわけです。丁度ヨーガのアーサナ(ポーズ) のように。

苫米地 それは初心者のものです。

- ではそこから次の段階へいく時に何をすべきだと思われますか?

苫米地 そこが恐らく本末転倒になっていて、最初から型ではない部分から始めても良いと
      思います。ヨーガでアーサナから始める流派があっても良いし、最初から瞑想をす
      る流派があっても良い。それは教える先生の考え方だし、後は社会のなかでの
      必要性もあるかもしれませんね。

- 社会的な必要性ですか?

苫米地 体育と武術を一緒にするとか、スポーツ的な武道とか。戦争をやっている最中だっ
      たらとにかく相手の心臓を止めることだけを教えた方が良いかもしれない。ただ、
      そういう時に一つの動きじゃ相手に判ってしまうでしょ?如何に多くの動きを教える
      かが大事になる。一つの方法論として型を教えるというのがあっても良いと思う。
      でも、全く別の一切型を教えないという方法論があっても良いと思う。だから一つ
      に拘っては駄目。結局はどっちにしても人間の体の動きを超越しなければ駄目な
      んだから。例えばアーサナを徹底的にやって、成瀬先生の出ている本の型は全部
      出来るようになって、それでようやく成瀬先生の弟子に成れるかというのが実際の
      ところでしょう。

- 古流剣術というのは物凄く限定的な型、動きを繰り返すものが多くて、現代人の感覚か
   らすると「もっと色々やれば良いのに」と思う人も多いんですね。

苫米地 今の剣道は剣道じゃないんですよ。私も古武術の家だから言わせてもらうけど、あ
     れはフェンシング。明治時代に、フェンシングが日本に入ってきてあれを真似しちや
     ったんですよ。

- 現代剣道の形式というのは明治になってから榊原鍵吉という人が始めた撃剣興行が
   もとになっているとも言われています。ただそれ以前の剣術、香取神遠流や鹿島新当
   流、一刀流、新陰流などの古流剣術もやはり、突き詰めていくと五本しかないような型
   の世界から練り上げていくわけですね。それが何故なのか?という部分を聞きたかっ
   たんです。

苫米地 それはだから嘘を聞いているんですよ。敢えて五本しか教えてないんですよ。自分
      達が教えた人間が限定されればされる程有利に決まっている。「お前たちは五本
      の動きしか知らないんだから、どう攻められたって俺はたった五つの受けをやれ
      ば避けられる」と。それは教わる人間だちというのは外の人間だから。秘伝は
      絶対に教えない。大体は一の太刀、二の太刀までしか教えないんだから。「よく五
      本も教えるね」ですよ。それは外に金を取って教える生徒用の剣術であって、本人
      や本当の後継者は如何にその型から自由になるかだけを学ぶ。もちろんそんなこ
      とは百も承知ですよ。本当にいまだに五本しか型がないとか思っているんだったら
      本当にもう一度日本の武道を調べた方が良いでしょう。

- 口伝でそのあたりは明文化していない部分もあると思います。

苫米地 う~ん、書かれているものあると思います。

- こう伺ったのは宗教や禅と武道の構造が究極的には"自分のなかに求める"という構造
   で似ているからなんです。宮本武蔵も「神仏これ頼むに能わず」という言葉を道したと
   いいますが、結局、自分自身に答えを求めている。そのゴールを目指すプロセスに
   武術は型というものを持つのと同様に、ヨーガにはアーサナという構造を持っていること
   について先生にお聞きしたかったんです。

苫米地 武蔵は「神仏を信じるな」とは言っておらず、頼むなと言っている。彼は最後まで神
    仏を信じていたと思います。もちろん武蔵という人物のことがどこまで正確に伝わっ
    ているかは判りません。ただ彼の書いたものが本物であるという判断で言えば、恐ら
    く彼は当時の仏教を信じている。で、当時の仏教というのは仏教じゃないんですよ。
    釈迦の教えじゃなくて明らかに道教、一部儒教も入っている。そこにはいわゆるヨー
    ガの"ブラフマン"の概念が入っているんですよ、タオの概念ね。恐らく道教のタオは
    ヨーガのブラフマンから来ているんでしょう。で、仏教はブラフマンのタオですら
    「空である」という。だけど武蔵の時代の彼の言っている仏教というのは純粋な意昧
    での道教、ブラフマンなんですよ。だからブラフマンということは心から信じている
    。だから彼が仏像を彫るのも子供を殺したことへの頭罪ではなく、ブラフマンに近づ
    く為の修行だったんですよ。禅の坊さんがやっていることと同じ。で、それを決定的
    に最後までやり抜くことであって、どこかで中途半端に「神様御免なさい、助けてく
    ださい」と言うことは許されんぞということですよ。それと型は何の関係もない。ど
    うしてもそこに持っていきたがるけど(笑)。何の関係もない。ヨーガもアーサナが
    凄く重要だけど、それが最初で精々体を作るまで。瞑想する為の体、エネルギーを
    自由自在に動かす、プラーナを自由自在に使うクンダリニーを使う体を作る為の
    アーサナであってそこから先が長い。武道も、最低の型が出来ないのは論外だけ
    ど、そこから如何に先に行くかが一番重要なことですよ。

- 実際にいまも「五本の型が大事だ」とやり続けている方が多いんですよ。

苫米地 それは馬鹿ですよ。それは恐らくそういう人が欲しかったんですよ。宗家側から
      見ると。

成瀬 美味しいよね(笑)。

苫米地 美味しいよ。大体日本に伝わっている流派には決まった型があって、それさえ見
     ておけば「お、お前は何流だ」と見ただけで勝ったとなる、それ以外の動きが出て
     来ないんだから(笑)。そうでしょ?それと同じで。それは美味しいんですよ。それ
     はスポーツ的な意味合いで、単なるエンドルフィンを出して幸せになる、気持ち
     良くなるということであれば有りですよ。だったら朝から晩までスクワットしていれ
     ば良い。朝から晩までスクワットやっていればちゃんとべータエンドルフィンが出
     てきて最後にセロトニンが出て来ますから。

成瀬 教える、教わるというのは、決め事が多ければ多い程教わる側は楽なんですよ。何にも
   決めないで「勝手にやれ」となると一番大変なんですよ。だから、入門しました、「あ
   あじゃあ好きにしてろ」とズーッと1年2年放っとかれたら困るでしょう?だけど「素
   振りを今日は100回やりなさい。次にこれをやりなさい」と言われたらその通りやれ
   ば良いから楽なわけですよ。疲れるかも知れないけど楽は楽ですよ。「好きにしろ」と
   言われたら一番大変じゃないですか。だけど一番大変なもののなかに大切なものが
   見つかる道があるんだよ。だから最初はヨーーガでも同じなんだけど型を練習して
   守っていかなければならないかもしれないよね。「このポーズをやってこのポーズを
   やって」と言われたことを守っていかなければならない。それは彼が言った通り本当
   に最初のうちであって、極めていこうとしたらそういうものを取っ払って自分で見つけ
   ていかなければいけない。だから師匠とかグルっていうのはこの人が本当のものを
   見つける為の、本当のものを教えるんじゃない。本当のものを見つける為には「君
   こっちの方に行った方が良いんじゃないの?」というヒントだけを教える。そのヒント
   で判らない人は駄目なんだよ。だから免許皆伝の巻物を見たら白紙だとガックリす
   る人が居るけど、白紙を見た時に「ありがとうございます」という人は本物ですよ。


苫米地 本当ににわか作り、竹槍を持たせて人間をどうしても兵士に育て上げなければ
      いけない時は(型は)役に立つかもしれない。基本的な型は色々な工夫が込め
      られて作られたわけだから。手っ取り早く殺人者を作るというわけでしょう?
      相手が素人だったらね。だけど本当の武術は相手は素人じやないでしょ。とい
      うことは覚えたことを使ったら絶対に勝てない。それを如何に越えるかでしょ?
      「それを越えられるまではやり続けなさい」という意味かもしれないね。でもそれ
      は人生もったいないと思いますよ(笑)。

 ↑以上、引用終わり。

 今更ながらに想う事...

 学ぶ立場として...最初は、とにかく「真似」。与えられた事を一生懸命やってみます。でも、
         それだけでは足りないし、難しい。多分、「工夫の基礎と感覚」を練るの
         に「真似」する期間が必要なのだと思います。

         先生とは「背景」も「能力」も「個性」も様々に違うから「形態模写」に
         終始しても仕方がなかった。

         与えられた「感覚」や「ヒント」を手掛かりに、自分の中に、どうやって
         「再生・実現」出来るか?と言う事なのだと思います。

         時代により「型」がそのままでは通用しない場合もある?と思うのです。

         だから「型」に込められた意図や想いをイメージしています。
         
 教える立場として...自分が回り道したり、どん臭かった分、最初は、一生懸命お話してい
          ました。

          結局、「大きなお世話」で「受け身」な状況を作るだけ...相手も自分も
          上手くなりませんでした。 

          自分の学び方を変え、「実演」を以て説明とし、機を見て「ここ一番!」
          で「ヒント」を出せる様、「自分作り」する方向に変えてみました。

          また、相手が「聞いて来る」まで手を出さない決心もしてみました。

          K野先生がとても我慢強い事が身に染みて分かる(笑)...でも、それが
          一番早いのだと思います。

          お陰で互いに成長出来る様になって来ました。

(参考)
 練習相手を強くする
 ジャンルは関係ない
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by cute-qp | 2010-03-31 00:00