身体の使い方の調子発見法

 本日は、高橋迪雄先生著「正體術」より引用・掲載させて頂きます↓。

生きている身体の動き

 どれほど精巧を極めた機械でも、運転させて見ない限り、その性能の発見は容易でない。

 静止させたままで検討したのでは、専門家といえども時に見落としをまぬがれない。動か
して見て始めて故障も発見されるし、改善の余地も見出される。

 これと同様に、人のからだは神の手に或る精妙な一つの機械である。

 死体解剖や動物試験だけでは、容易にその性能の全部を知ることもできないし、故障の
発見治療も的確には行い得ない。まして心身相関の理によって問題は一層複雑を極める。
 研究の便宜上心身を区別して、いずれか一方にのみ没頭すれば、いかに苦心研究した
ところで、要するに半面の真理しか掴み得ない。
 しかもその半面のみの事実でも、これを生きた人間に適用して見ると、からだの方は常
に心身が共に活動しているため、効果はその全面に現れて来て、意外の好結果を収め得
る場合も少なくない。

 だからといって、半面の真理のみをふりかざすのは、人のからだと心の働きを正しく認
識し得たものとは言い兼ねる。スポーツマンが好調子であること、油の乗っていること、当
っていることは、心の問題であると同時にからだの問題である。

 単なる呪いや護符やマスコットは心に働きかける力は持ってはいるが、これだけで失わ
れた調子が戻って来るものではない。いかに猛練習を続けようと努力しても、からだが疲
れ果ては如何とも致し方がない。強いてやれば心身ともに疲労の極に達して、回復に長
時間を要する。もし疲労が一夜の休養によって回復し得ない程度に甚だしくなれば、健康
は衰える一方である。

 「健康なる精神は健康なる身体に宿る」というギリシャの古諺がある。しかし間くところに
よると、これは重大な誤訳だという。

 我々は常に、不健全な精神の持主である健康者や、見上げた健全な精神の持主であ
る病弱な人々を知っている。或る人が原語を調べて見たら「宿る」という言葉はどこにも
見出されなかったそうだ。「からだも丈夫、心も健全」だったら申分なかろうという古代ギ
リシャ人の幸福に対する理想を言い現したものらしい。

 しかしもちろん不健康故に気むずかしい人はあり、からだの状態が変ると心持まで一
変する場合はあり得る。従ってからだの健康が望ましいものである点には、恐らく例外
はあり得ないはずである。

 要するにからだも心も、人は常に動き変って行く。その動き変るままの人の姿を見つ
めて、そこに一貫した行動の原理、心身の出しい動かしかたを見出さなくてはならない。

使い方一つで心身が変わる

 人のからだが使い方一つで、どうにでも変わると言ったら本当にしないものが多かろう。

 丈夫な人は何をしても平気なのに、弱いからだで梯子段一つ上がることさえ容易ならぬ
骨折りである。これが従来の常識である。

 ところが丈夫な人でも寝ちがえることがある。からだを働かすことを一切休止しているは
ずの睡眠中でさえ、実は寝返りをしたり手足を曲げたり伸ばしたり、決して動かないわけ
ではない。その些細な動きでさえ、もし不適当に動かされた場合には、堪え難い痛みを残
すことになる。

 また病弱な人でも、何かの変事に遭遇したりすると、我ながら驚くほどの敏活な行動を
やってのけて、後でその不思議さに自分で呆れることもある。こうして見れば、使い方一つ
でからだは持主白身も驚くほど微妙な働きをなし得るように出来ていることに心づくはず
である。

 コツというのも調子というのも、つまりはその時々に応じてからだの使い方が、正しく無
理なく行われる状態をさすもので、正しく使われている限り疲労は起り得ない。却って使
えば使うほど丈夫になる。
 むしろ真の疲労は動かさないことによってのみ生じ、一定の緊張し切った状態に心身
を凝らして長時間持続すれば、いかに健康な人でも相当の疲れを覚えるに違いない。
まして疲れて痛むとか馴れないことをしたために節々が痛むというのは、痛むように使
ったがために痛むのであって、決して猛練習や、馴れない働きのためではない。

 とにかくにからだけ言い分が絶えず、人も自分も病弱なからだと思い込んでいる人々
は常に言い分の生じるようにからだを使っているからである。

 その証拠には、この種の人々に著者がからだの使い方を指導して見ると、その瞬間
にからだの言い分がなくなって、まるで平生の重荷が除かれたようだと告白する。

 また例えばゴルフ場などで当りが悪くて腐り切っているゴルファーに、著者がからだ
の使い方に間する僅かに一言の助言を与えただけで、俄かに好調をとり戻して喜ぶ実
例を教限りなく知っている。実はここ数年間、著者はこれを仕事に生活して来たと言っ
て良い。

 しかし一般の人々に常に適当なからだの使い方を教え指導することは、一人のよく
なし得るところではない。同じ動きにしても、時により人により、また気温、湿度、食事や
睡眠の状態により、決して同じ意識によって指導し得るものではない。要するに各自の
その時に応じた意識を与え、これによって正しい使い方をひき起させるわけである。

 ↑以上、引用終わり。

 高橋先生の著作は、旧かなづかいですが、どれも、現代語に非常に近い言葉使い
で、平易に、必要な事をとても丁寧に書かれている所がとても印象的で、その都度、
何度も読み返しております。

 とても勉強になる!以上に、先生の感性や性格が好きです!

 今回ご紹介しました「正體術」は小冊子ですが、大切な事を簡潔に分かり易く纏めて
おられましたので、その一部をご紹介致しました。

 また印象的だったのは、先生が昭和初期の段階で、既に「治療家」のみならず、「ボ
ディーワーカー」や「コーチ」としての意識を持って活動もされていた事・・・その展開
に納得すると共に偉大な先達の後を追わせて頂いている嬉しさとを感じました。
[PR]
by cute-qp | 2009-07-30 00:00 | 温故知新