「三摩之位」 ~伝書にみる創意・工夫~

 今日は柳生延春著「柳生新陰流道眼」より「始終不捨書」を抜粋・引用し、ご紹介致
します↓。
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 ■三摩之位 右重々口伝有之

 「始終不捨書」は開巻第一に「三摩之位」(摩は磨と同じ)という学習論から始まる。
一円相の上に等分に三点が画かれ「三磨」という。習い・稽古・工夫である。

 兵法の修行は祖師先哲の教えを後学が正しくよく習うことから始められる。その道に
入ったからには、その教えを心から篤く信じて迷わず、少しも退転することなく習いを
重ねて悔いないことが第一であり、積極的に自分から進んでの稽古鍛錬に励まねば
ならない。

 この「習い」と「稽古」は、二にして一であり、どこまでが「習い」で、どこからが「稽古」
かを区分できるものではない。敢て申せば、全心全霊をもって「習い」を理解し、そ
れを全身で全く自分のものになしきってしまう「稽古」を積むとでもいうべきか


 その習・錬の課程の上に自己の「工夫」を重ねあわせることがさらに要求される。

 「工夫」とは自己の心中に求める修行であり、真諦の求追である。上述した
如く「習い」「稽古」「工夫」の三位は、どこまでが「習い」であるか、「稽古」 であるか、
どこからが「工夫」であるかの境界がなく、その三位を一円相上に追求して、循環
して端無き位として渾然として一体と化するように円成し、出精これ力むべき
である
との習訓である。

 道元禅師の「身心学道」-身心を挙して道を学ぶ-に通ずると信ずる。

 ↑以上、引用終わり。

 古今東西、様々な武術の伝書がございますが、一番初めにこの様な教えがある伝書
も珍しいのではないか?と思います。

 今から約400年前に書かれた文章ですが、現代にも通じ、また、様々な場面にも応用
出来る教えだと思います。



 現在、合気観照塾では「剣術」のお稽古をしております。それを受けまして、「始終不
捨書」より「十禁習之事」をご紹介致します↓。

十禁習之事
              
一、面ヲ引ク事

 〔註〕 兵庫助利厳の兵法歌に、「面引ククセハワズカノコトナガラ心ノ引クヲキラヒコソ
スレ」とあるように合打の如くきびしく相手と太刀を斬り合わせた時に、顔が思わず後に
引けたり、身体ものけひけたり、また相手の太刀に相懸ける時は、自分の太刀ばかり前
へ出して、身体は腰がひけてしまう。このような身勢では、しっかりと見るべきところが見
えず、心も身も居付いてしまい、当然それにより身の働きも不自由になり、丁度ものに縛
られたようになってしまう。自縄自縛とはこのようなことをいう。

 またわが方から太刀を斬り込む時は、上半身が反り、折角斬り込んだ太刀も伸びない。
截相に於ける多くの悪いことは、皆この面を引くことから出るのである。これは敵に対し心
の引くことが形に現われたのであり、初心者によく見るくせである。兵法では何にもまして
是が最も悪いこと故に、第一番にこれを禁戒して直さなければならない。

(中略)
                                 
 如雲斎利厳が最も重く視て施した稽古に、「鳥飼い」「鳥飼い間ぎり」というのがある。

 これは鵜飼いが鵜を、鷹匠が鷹を愛育訓練すると同じ意趣 - 今日いう条件反射の
心理教育で、初心-殊に幼稚教養法として最も親切に、その教習法の手段・方法の理
術を示してこれを課し、今日にいたっている習訓である。

 「間ぎり」の間は、日間・隙間のことで、太刀稽古のとき、その太刀筋・勝口にすきがあ
ったり、太刀の「砕き」-変化のわざを、打太刀-教者が、使太刀 - 習者から抽き出
すとき、「猛」をもって対し、使太刀の自奮・自発を促すとき、打太刀はその間をきり立て
て、試練と、彼の自発・向上を期待するのである。

 これはまた、その太刀の本旨にそむくところのある者に対する「非ぎり」にも通じる。幼
稚や初心でもこの教育をうける者は、すでに鳥飼い教養で勇猛心をもっているので稽古
中に頭や顔にしないが当たっても、またたき一つしないようになっている。「三つ子の魂、
百まで」という諺があるが、これが兵法の真の極意に通じるので最も大事であると。-

(春風堂:この教えがあり、また、キチンとした「力の使い方」を学習する為に「袋竹刀」
を用い、「プロテクター」を付けて「お互いが安全に思い切り打ち合える形」を取っていま
す。勿論、「無茶」はいけませんが、キチンと打ち合いして頂きます様、ご留意下さい。)


ニ、身卜手ノ別ル事

 〔註〕 兵法歌に、「打チ込ムニ身卜手分ルルソノトキハ切り留リツツ太刀モノビエズ」
とある。わが方から斬り込むとき、頭首、両肩、胸の状態と、太刀を執った両臂とが、互
いに反撥運動をして別れ別れになってしまうことで、そのときの斬り方は、斬り留りにな
って太刀が伸びず、太刀が手前に廃ることになる。

 斬り留るとは、太刀の腰、つば元、両手の握り拳の手もとから斬り出すので、きわめて
手前斬りに打ち下ろされるので、堅い凝り固まった斬り方になってしまう。このような斬り
は真直ぐの斬りだけではなく袈裟斬りのような順・逆の斜斬りにもある。

三、胸反レバ手太刀展ピザル事

 〔註〕 斬り込んだときに、胸が反れば折角前に斬り込むという運動に対して相い反撥
して、斬り込む手太刀が伸びずに相手に届かず、かたより全身が凝り固まり居付いて
不自由になる。全て太刀は全身の調和のうちに遣わねばならない。

四、胸二肱ノ付ク事

 〔註〕 兵法歌に、「自徒ノ截合ヲ見ヨヤカナラズヤ胸二肱ツキ手前ギリナル」とある。
 手の内の握りが堅く、胸に肱を付けて太刀を遣うと斬り出す太刀が伸びずに、手前斬
りに廃る。

 石舟斎宗厳の「截相口伝書」に「打三ツの事」-ナマル、トマル、ハナルル也。ハナル
ルガ吉。二ツハ悪シ。-とあった。ナマルとはゆるく物を捨てたように、冴えたところのな
い打をいい、トマルとは物を押さえたように堅くてはずみのない打であり、二つともよくな
い打である。ハナルルは能く澄んで充実し冴え渡ってはずんだ打をいう。
 これは手の内もおのずから能くやわらかくしまって打が中庸に叶ったもので、最も望
ましい打である。

五、腰ノ折レ据ル事

 〔詮〕 兵法歌に、「腰ノ折レマクスワルノヲキラフナリ折レテスワルハナホアシキナリ」
とある。斬り込んだ体勢にて腰がよい意味ですわるのはむしろ望ましいことである。
 しかしここにていわれているのは、腰柱の後屈の者に多く見うける現象で、腰が前へ
出過ぎて折れ屈んでしまうので、足が居着くようになることである。こういう体勢ではや
はり太刀は手前斬りに廃る。

六、膝ノ据ル事

 〔註〕 兵法歌に、「懸ケ退キニ膝ノスワルニ二ツアリツカレ足ヲバワケテイマシム」と
ある。膝が据るのは、居着く足と疲れ足によっておこるのである。居着く足は身体が前
に懸かり過ぎて動きがとれない状態をいい、疲れ足は疲れきったときの足のように、踏
ん張るところを踏ん張れない足であり、こうなると全身まで居着くようになる。

七、前へ及ビ懸ル事

 〔註〕 兵法歌に、「裁合二心ヒカレテトニカクニ及ビカカルハ初中後ノクセ」とある。前
条で説いた通り、現今の剣道の習風と異なり、昔は初心は誰でも一足一刀の定法の足
の踏み込みが足りず、とかく「手・太刀」-太刀を執る両臂を前へ伸ばし過ぎ-上体を前
へおよび懸かり、身法が居着いて崩れる。初心はただ相手を打とうとばかりすることが著
しいので、この戒めが重要なのである。

八、手ノ下ル事

 〔註〕 兵法歌に、「哉合二手ノ下ルノハ直スベシセツカク勝テ負ニコソナレ」とあり、また
「脇の下すかすが好し」と教えている。先師厳長はこの箇条に次の如く註をしている。

 -截合に、相手の太刀とわが太刀とを打ち合わせたとき、または打とうと目指す-目標
を打ったとき、手もとが下がって留まり打ちになれば、彼・我の太刀と太刀との打ち合い
(打ち合わせたときの太刀の勝負)に打ち負けて、太刀が下太刀となって廃り・落ち、また
目指す-相手の太刀を執って打ち込むときのこ車(出こ手)などへ、たとい打ち込むこと
ができても、よくそのこ手の上へ、打ち乗り、打ち落とすことができず、折角打ち込んだ太
刀が下へすべり落ちて、これまた太刀が廃るので、これを折角勝って負けになるというた
のである。これは前掲もろもろの禁習によっておこるものである。

九、両足一度ニ据ル事

 〔註〕 兵法歌に、「両足ノ一度ニスワル不自由ハヌカリ砂原倒レヤスサヨ」 とある。両
足を一所に踏み揃えること、また特に前後・左右に踏み開いて一度に踏みすわること、
こうしたものはこれも前掲のもろもろの禁習からおこるが、特に前の二箇条の通り、丹田
・腰の廻りの力が上にあがって「上ぞり」、両肩・臂へむやみに力をこめて、足のはたらき
が居着くものである。

十、拳ニテ太刀ヲ使フ事

 〔註〕 兵法歌に、「拳ニテ太刀ヲ使フハヨワ、、、ニテ手ノ内マハリ打チ合ヒニ負ク」とあ
る。
 先師厳長は次の如く註をしている。-拳にて太刀を使うというのは、手の内や、手さき
(うで先) で太刀を使うことで、そのときは、肝腎な手の内で太刀の柄が廻って、好習と
する教えなる『肩、かいな、惣身より太刀を使う』ことなく、ただ手さきの技巧-虚勢には
しって、相手の太刀との打ち合いに打ち負けること。
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by cute-qp | 2009-03-14 00:00 | 温故知新