身体の"響き"を観る ~ツボの取り方 ③~

  昨夜に引き続き、増永静人先生 著 「経絡と指圧」より引用・掲載致します↓。

 ハリは刺すのでなく、沈むのだと教えたのは、ツポがそうした性質のものだと先人が知って
いたからであろう。

 意識的な動作は交感緊張を伴うから、相手も交感緊張を惹起される。皮膚同士が接触す
るときは、その反応は特に著しい。探るような手指には、相手は見せまいと警戒する。
 信頼してピタリと置かれた肌には、相手も心を許して急所を開放してくるわけである。むしろ
その指を迎え入れるように、ツポの中に吸いこんでくれる。
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 本能的な手当てを行えば、ツボはおのずとその部位を示してくれるのだが、すでに知性に
よる生活になじんだわれわれには、やはり知織に導かれないとツボの位置がわからない。

 子供は本能的に生きてゆけるのだが、文明生活では親の教えを必要とする。ツボを図示し
、大体の位置を教えるのはそのためである。
 この頃の親は生命的な与え方を忘れて、知識による型どおりに子供をはめこもうとしてい
る。

 教育ママとはそうした教え方をいうのであろう。

 ツボもあまりくわしく教えこむと、自ら患者の体表に発見する努力をしないで、知識のまま
型どおりを当てはめてそれがツポだと思いこんでしまう。
 ツボは生きたもので、点でも解剖的部位でもない、といえば、そんなものがどこにあるの
かと解らない人が多くなってしまった。

 その人の体に、現在の病状に応じて反応するのがツボなのだから、ツボは今ここにしか存
在しないのである.それが生命なるものの特質なのである。

 絵画の美しさは確かに絵の中にあるのだが、それを見る人の心によってあらわれるもので
ある。絵心のない人はどんな名画をみてもそこに美しさは存在しないだろう。音楽のわから
ぬ人には名曲も騒音とかわらない。心ここにあらざれば見れども見えず、開けども聞こえず
というのはこのことである

 ツポをみるのは、その人の病気を治そうという心がないといけない。また治せる技術をもた
ないと意味がない。

 診断即治療というのはこのことだから漢方四診の診断は病気を見ることではないのであ
る。
 治そうという心で、治す方法手段を見出すのであり、経絡診断の立場からは経絡の歪み
を見出し、これを補しゃする方法を掴むことである。

 経絡の歪みというのは、その生命体の空間的ストレスと時間的歴史によってあらわれた
姿であるから、その全貌をみなければならない。それが視診でなく望診という見方になって
くるのである。

 われわれは経絡治療の技術がすすんでくると、衣服を着た上からでも経絡診断ができる
し、ツボの所在とその虚実をみることもできるようになる。
 カンでみるのですかというが、この眼で見ることにかわりはない。ただし絵の色彩をみるの
でなく、美しさを見る絵心と同じで、服や皮膚を見ていてはわからない。

 治療のための心によって患者の苦しみに共感すれば、そこに見えてくるのである。それが
証というものの本質であることを、どうも一般に理解されていないようである。
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by cute-qp | 2009-03-11 00:00