身体の"響き"を観る ~ツボの取り方 ①~

 今日より身体の「"内的"な"響き"を観る」と題しまして、増永静人先生 著 「経絡と指圧」より
5回に渡り引用・掲載致します。とても、丁寧で分かり易い解説ですので、どうかお付き合い下
さい↓

 ツボの効果は、一つずつ書物に記載してあるし、病名によって幾つか取穴すべきものも書か
れている。そうした一般的なものがわかっておれば、技術差の少い灸なら素人でもすえられる
し、灸点をおろしてもらえばなお容易である一漢方薬も効能書があって薬局で揃えてくれれば
医者に診て貰わなくても、さらにパック入の粉末でせんじる手間もいらぬとなれば、これは明
らかに民間療法である。

 効果に差があるというのでなく、東洋医学としての本質は、そうした施術点や生薬の効果で
はなくて、むしろ東洋医学的な診断の特徴にあるといわねばならないだろう。健保のように点
数できまる医療なら機械がすべてを代行できるようになるだろう。

 人間の医療は、生命という不確かなものを倍額しあい、その生命を実感しあう者同士ではじ
めて行えるのである。

 ツボが解剖的に克明に位置が示され、その効果が詳細に書かれてあると、いかにも科学的
に信頼度が高いように思える。しかし人間の生命が千差万別であり、そのゆえに個人の尊厳
があるとすれば、保険点数が個人を規制できないように、図上の点、効能書はあくまで一般
的なものであって、それを個人のケースに当てはめて実効をあげるのは、人間の技であると
誰もが納得できる。

 漢方が人間治療であり個性を尊重する医療であるとは、そこに計量しきれぬ匙加減があり
、心の通う技術があるということにほかならない。

 ツボがその病態にあうとヒビクということは、漢薬がその香と味で患者に安心を与えると同じ
意味をもっている。

 ヒビキのあるツボをおさえるということは、相手の心にヒビクようなツボのとり方ができるとい
うことである。頭でおぼえて文字で知っているツボではなくて、その患者の体の上で見つけ、
それをおさえてヒビクことのわかるツボである。
 こうした実感はいくら書物を読み知識が豊富であっても身につけることはできない。小説を
読んで感動し、書画を見て感銘するように、体験に裏付けられた心がないと駄目である。

 判別性感覚はものを見分ける働きであって、似たものを区別し、違うものを比較して、個々
を類別し一般化し組織・つけて知織を構成してゆく。その基礎は二点弁別であって、混乱した
ものを区分けする働きである。
 空間的にはその位置が、時間的にはその前後が全く別のものと認識できなくては正しい知
識にならないのである。
 自他の区別は、判別性感覚の発達に伴って明確になり、行動の中心はその視点の不動の
場所に定位されてくる。物の世界はこのようにして判別性感覚から生れたのであるが、生命
自体はこれと全く逆の性質をもっている。

 空間的には相互依存し、時間的には螺旋的に還流して存在しているのが生命である。

 生きるとは呼吸(いき)して内外に流動し、生み生まれて生きつ・つけるのである。この実態
をつかむのが原始感覚である。

 本能的行動はこの原始感覚の反応によって営まれているのである。この感覚を、判別性
感覚の五感以外のものとして第六感と呼ぶことがあるが、むしろ五感の根底にある生命感覚
であり、生命体に共有されているものである。

 高等な判別性の発達によって明確に掴めなくなったが、むしろはっきりしないことが生命的
な特徴でもあるのだ。

 ツボが生命的なものであり、そのヒビキが内臓の働きに影響するというのは、体性神経のよ
うに経路のはっきりした一対一対応のものでなく、より複雑な自律神経に似ているからである。
 神経は動物性機能として出現したものだから、むしろ植物的なものは液性伝導に近い性質
のものであろう。経絡が気血の流れと呼ばれるのをみても、この推定は正しいと思う。経絡を
自律神経で説明するのは、近似的ではあっても、やはり本質からはやり遠いわけである。
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by cute-qp | 2009-03-09 00:00 | 温故知新