心と身体の響きを通じて... ~春風堂の大切にしたいもの~

 今日は、春風堂が「大切にしたい」と思っている事について、増永静人先生 著 「経絡
と指圧」より引用・掲載致します↓。

 「この頃の医者は、ここが痛い、どこが苦しいと訴えても、そこへふれてみようともせず、
すぐレントゲンや血液検査をといって、機械器具を信頼し薬や注射にばかり頼っている」
と病人は嘆いている。

 鍼灸や漢薬にどのように偉大な治病効果があろうと、患者の悩み訴えるところへ、手を
もってゆかぬようでは、東洋医学の人間治療ということはできないだろう。

 「ここが悪いのか、どこが苦しいのか」などと患者に聞かねばわからぬようでは、患者も
信頼しかねるだろう。
 漢方では不問診断を非常に重視している。黙って坐ればピタリと当るというのは、何も易
者の宣伝文句とは限らない。患者自身の気付かぬところまで、黙って身体をみて指摘す
るだけの診断能力をもつことが東洋医学には大切なのである。

 人間の五感しか用いない漢方四診は、未発達のゆえに機械器具を用いないのではない。
人間をみるには人間の心をもった人間が必要なためである。

 その日、その耳、その口によって人間の心は伝わり、人間の心が知れるのである。そして
人間関係とは、文字通り肌のふれ合いのことであって、肌を合せることでその苦悩はうすら
ぐのである。

 鍼を刺す前に指先でツボを確かめるということは、たんにツポの所在を知ることではない。
そのツボのヒビキは指先を通して患者の心にひびき、術者はそのツポで病気の治る確信を
得るのである。
 このツボが効くだろうということは、科学的な実験の確率や古典の記載が保証しているから
確かなのではない。

 そのツボをおさえた指先が、相手との共感によるヒビキを伝えてくれるのである。

 そのヒビキの気持良さが、次に行われる刺鍼をここちよく迎え入れ、安心して受け入れるの
である。
 鍼を打たれるものは、被験者でも実験動物でも、また生理学的検体でもない。心をもった一
個の人間なのである。

 統計的には確率によって扱われる一つの数にすぎないかもしれないが、個人としてこの世
に存在する唯一の生命なのである。その心が鍼を待ち受けるのでなくして、どうして効果的な
刺鍼ができよう。
 指先がツボをとることには、このような重要な意味がある。そのツポのとり方だけで構成され
ている「指圧療法」なるものを鋭灸師は謙虚に習得してみようという心をもってもらいたいもの
である。

 按摩は医療の賤技といわれた時代もあったが、それは術者の態度にも青任がある。

 時間と労力をかけて全身くまなく、かゆい所に手の届くようにして施術をする指圧は、素人く
さくて面倒なことだと思われるかもしれないが、医療とはまさにこのような人間くさい行為によ
って、生きている共感を患者に対して得ることが大切なのだと経験されることも決して無駄で
はないと思う。
 漢方四珍の実感も、指圧によって育てられるものだということを私は確信している。湯液だ
けで治療を行う人にも是非その体験をおすすめしたい。

 ↑以上、引用終わり。

 先生がこのご本をお書きになったのは25・6年前だった?と記憶しておりますが、それ以
降、「健康川柳」に「お医者様 データー見ずに 私見て」等と評される如く、「人を診ない治
療」が益々加速している様に思われます。

 勿論、「検査」が「不要」とか「無効」とは思いませんが、「患者さんの"今"や"ありのまま"」
を見ずに「何が分かるのだろうか?」と思います。

 そう言えば...先日、膝を悪くされた方からご相談を受けました。

 医療機関では「X線検査等」を受け、「特に何もなし」との事で、何もして貰えなかったとか
...私がざっと見た範囲では、手術歴等も影響して左右の重心バランスが悪く、必然的に、
「骨盤」や「膝」が歪み、特に、膝関節から脛骨・腓骨にかけて捻れていました。

 そして、その旨、1つ1つご一緒に確認しながらお話して行く中から、そうなるに至った「生
活」や「習慣」、「根本原因」等が自然と像を結んで浮き上がって来るのです。

 私としては、そこまで「辿って」、「見えてきて」初めて「スタート」だと感じております。

 そんな「生命の響き」の様なものを大切にしたい...と思う春風堂です。



引用の続き↓

 どのように相手を助けようとする好意に出たものであっても、それを相手に押しつけては、
やはり受け取りにくゝ抵抗感をおぽえるものである。
 それが、してあげるのでなく、させて貰うのだという態度で、相手に受けとって貰う謙虚さ
があると先方も喜んでこれを受け入れるものである。

 押すのでなく、相手にもたれるようにして自分を支えるときに、相手もこれを支えて受け
入れてくれる。

 精神療法の根本は、相手を矯正しようとする態度でなくて、相手を理解しようという気持
だと説かれている。もたれるとは相手に持ってもらうということなのであって、そうした気持
のあるところに、もちつもたれつの状況が生れてくる。

 これが生命的な一体感である。

 絶海の孤島に置かれたとき、これは人間同士でなくとも、生きたもの同士の感情として動
物との交流できることを小説が教えている。
 医者と患者の人間関係も、病気という苦悩に対面して互に助け合う生命の共感がないと
いけない。医者自身も明日をも知らぬ生命をもったものであり、そのはかない生命をもった
もの同士の一期一会の人生に、医療を通してかかわりあっているのが医者と患者の人間
関係なのである。

 絶対の権威をもって優者として患者に対して振舞うなどという態度は、医者にとって許さ
れないばかりか、神からみれぽまさに愚かしいことであろう。
 この指が、またはこの鍼が、薬が、相手の病気を治してやるのだといった押しつけがまし
い態度で医療が行われたとき、いったい人間ひとりのカがそのような大それたことを為し得
ると誰が保証しているのか。科学が何十%の治癒率を誇るといっても、この病人を救えると
いう保証はどこにもないのである。

 治療が成功するというのは、患者の生命がこの自然の法則にのっとって、治癒カの働く方
向に働いたというにすぎない。

 その治癒カの一つである経絡の動きを、われわれはそのツボでつかむのである。

 そのツボをおさえて、生命の躍動をヒビキとして感じるとき、その病気が治ってゆくにすぎな
い。私が病気を治したのではない。治るべき病気に手助けをしたにすぎないといった名医の
言葉は、経絡治療をしているものにとって、いつも実感として迫ってくる。
 
 指が経絡のヒビキをとらえる、そのことによって病気が治ってゆくのである。

 経路をみるには、相手と共にこの自然の中で一体になるという気持が必要である。病人の
身になってというが、本当に相手と一つになったとき、相手の苦痛がそのまま自分に感じられ
て、それが自分の前に投影されているような気持になる。
 自分の悪いところなら、手はおのずとその悪い所に当るように、術者の手が患者の悪いとこ
ろに自然にひきつけられてゆくのである。
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by cute-qp | 2009-02-27 00:00 | 春風堂の想い