自分の見詰め方、心の持ち様...その歩み

 今日は弓道の、浦上博子範士著「型の完成にむかって」言叢社より参照・引用させて頂き、
自分を見詰める事と心の持ち様、その歩みについて学ばせて頂こうと思います↓。

 自分を客観視する

 自分の状能こからだも心の持ち方も)をいつも鏡で見ている心持ちで自分を見詰めるこ
とを習慣づけたいと思っています。
 もともと内向性で感受性ばかり強い方の性格ですのでこの傾向があるのですが、それ
を良い方に使おうと努めています。

 いつも鏡で見ていると考えますと、自分の姿勢から動作、行動、物の言い方、人への
接し方等でいやな面ばかりが強く感じます。
 全部を直すことは難しいことですが、気がついた時点で一つでも直してゆけたら幸いと
思うのです。

 射のうえでも同様で、自分の写真や映像を見ますと欠点ばかり見えて二度と見たくない
気がしますが、それを反省して正してゆかなくてはならないと思っています。
 欠点を少しずつでも取り除いてゆくと、自然と長所が残って来るのではないでしょうか。

 そして射はもちろんのこと精神状態も、性格そのものも正してゆきたいと思います。

 積極性

 自分に欠けでいるために特に思うのですが、射を行うにあたって積極性が必要だと思
います。
 究極に当たっで締めないことが肝腎で、離れに際して特にそれを感じます。1本の矢
に全精力を傾けて最後まで努力して、その上でもし結果がよくなかったとしても悔いは
少ないと思います。

 私は早気になったことがありませんが、以前指導していた人が早気になったことがあ
り、幸い軽症のうちに直りましたが、後で本人は早気は消極的なものが原因のように感
じたそうです。いわゆるやる気が徹底すれば早気にならないですむのかも知れません。
 早気ばかりでなく何か癖が出た場合に、その癖と積極的に取り組んで矯正してゆけば
、かならず直るのではないかと思います。

 意識して行動する

 射に入ってからはもちろんですが、まず道場への入場から退場までの間、一挙手一投
足すべてのからだの動きは意識して行うことが大切と思っています。
 何も考えないでも完全に出来るように普段の稽古をしておくのが理想的なのでしょうが、
私などそこまで到達出来ませんので、どこからどこまで注意をすることがいっぱいで忙し
いことです。

 冷静に自分を見詰めて、無意識な動きのないように努めています。そうすると、自分の
からだの動きがはっきり分かって来て、こういう風にやりたいと思うことがある程度出来る
ように思います。

 集中力とその持続

 集中力という言葉の専門的なことは私には分かりませんが、私が考えていますのは、
神経を集中するということは一つのことだけに集中して他は全部分からないような状態
ではなくて、かえって他も全部分かるような状態のように思うのです。

 例えば射場に入る時から、日の付け所は決まっていますから、視線はそこにあって
も視野の端の方もおよそ見えていて、周囲の動静は分かるような状態、そしてその方
に気をとられず自分の行動にも注意が行きわたる状態です。

 射に入ってからでもカメラのシャッターの音などよく聞こえますが、それはそれで認識
はしても気にはしないことにして、自分のからだの働きに気を配っていますとフラッシュ
が光ったりしてもそれに惑わされることはありません。
 周りのことも割合はっきり分かっていて、自分のやるべきことは精一杯努力することが
出来るのがよく集中出来た時と思うのです。

 一つのことだけに気が行って他が分からなくなるのは気をとられる状態で、射において
はあまり好ましくないのではないでしょうか。

 集中力が強く働く時、つまり緊張の度合いの強い時の方が神経を分散して使うことが
出来るように思います。
 こんな時には自分の身体の細部までよく感じることが出来てやるべきことがはっきり
分かる気がします。
 極度の緊張はそう永く続けることは出来ないかも知れませんが、入場から退場まで
の間くらいは続けることが出来るように修錬しておきたいと思っています。

 心気の高揚

 平常心で心を落ち着けることと同時に心持ちを高揚させることも必要で、気持ちの盛
り上がりがなくではならないと思います。少し昂ぶっているくらいの方が自分の全力が
出せるからです。

 それも自分で意識して心を高揚させることが必要と思うのです。

 心を静めたり高揚させたり、と自分自身の心を自分で調整することが大切で、これも
普段の心の修錬によって出来るようになると思います。
 自分の心を意志の力でコントロールすることが出来れば、からだもまた意志によって
働かせると思うのです。

 もっとも、からだの働きは稽古の時にやっておかなければなりませんが、稽古では思
うように出来なくても本番で緊張し、心気が高揚した時には案外、出来たりすることもあ
るものです。
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               浦上先生による 日置流 距射(つくばい)

 ↑以上、引用終わり。以下の様な道歌がございました。

  身のくさび 心のくさび 手の内の
   くさびとしめて 引きたもち射よ


 私はまだ「弓道」を嗜んだ事はございませんが、「手の内」や「くさび」等は「剣術」にも
共通する「教え」であり、「感覚」であります。

 そして、自分自身を見詰め、日々、「ああかな?こうかな?」と工夫する内、「あっ!」
と閃き、浮かぶ瞬間があって、優れた古人の智慧に感動すると共に、「また1つ」自分
自身を知った喜びに感じます。

 そして、また「次への一歩」を踏み出すのです。



 離れの心理

  矢をかけて 引しぼるるは 覚ゆるぞ
   離れ時には 無念無想に


 上の句は会の項までに述べて来ましたように、引きしぼる時まではからだをよく意識し
てすべてを調えておくわけですが、離れる時は何も考えるなと教えられています。
 これが理想の離れでしょうが、実際にはよほど稽古を積んでいなければ難しいことと
思います。

 何も考えないで離れた時に早すぎたり伸びが充分出なかったり、ゆるんだり左右が
合わなかったりしては何にもなりません。
 それで伸合いの項で申しましたように、伸合いで離れの方向を決めたらそのまま一
気に残身までもってゆく、やごろと云う離れの時期はその間のどこかにあるので、故
に来たから離すのではないと考えることにしているのです。

 私は伸合いの方向を決めるまでには、いろいろとやるべきことが沢山あって手間どり
ます。
 傍から御覧になると何をもたもたしているのかと見えるかも知れませんが、本人は一
生懸命離れに向かって努力しているつもりなのです。

 そして最後のところはそれこそ思い切りというか、決断しかありません。本番での伸
合いから離れにかけての心境は、いわゆる清水の舞台から飛び降りる心持ちです。

 今はあまり使われなくなりましたが、戦前はよく不惜身命という言葉を使いました。
戦時中、身命を惜しまず国のために戦うとか死ぬとかの場合に使いましたが、本来は
からだも命も仏にささげて惜しまないことで、仏教から来た言葉のようです。

 離れの心境に通ずるものがあると思っています。

 的とか中りとかに囚われると、思い切った伸びが出なくなります。私はどうせ中りにつ
いての自信も射の自信もありませんので、その点での諦めもあってせめて自分の理想
とするところ、信ずるところを求めたいと考えています。
 望みが大きすぎるかも知れませんが、大乗的な射と言いますか、そんな境地を追求
したいと思うのです。

 離れ時には無念無想、というのもこんな境地ではないかと思いますが、射が完成して
いなければ何も考えないわけにはゆきません。
 私はまだ離れに際して勇気とか決断が大いに必要ですが、それがなかなか出て来な
かったりしている状態ですから、大乗の射など程遠いものですけれども、理想は高いと
ころにおくに越したことはないと思っています。

 いまだに不惜身命などと心に念じながら清水の舞台からいつも飛び降りているので
すが、飛び降り損ねて失敗してはまた舞台に昇っては飛び降り直しをしている始末で
す。命が幾つあっても足りません。
 理想は高く持っても実際にはそれ以前の段階にしか過ぎず、稽古では離れはこんな
ふうにやりたいとイメージして具体的な方法を講じているのです。

 心についての問題は大きすぎてここではほんの一部しか表現出来ませんが、要は射
に対して自分が、どういう理想を持っているかということが根底になるのではないでしょ
うか。

  はいもうも 射手見せ顔も むやくなり
    ありのままなる 弓ぞ目につく


 はいもうとは、むやみに卑下することと聞いています。やたらに卑下しすぎても、これ
見よがしもよくない、ありのままがよいということですが、一本の矢にも理想はどこまで
も追求して努力した上でのことでなければならないと思います。
 自分にはこれだけのことしか出来ませんが一生懸命努力しますという心持ちです。
謙虚な心でなければならないと思いますが、卑下と謙虚はちがうと思います。
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by cute-qp | 2009-02-26 00:00 | 温故知新