意拳論 抄 (1)

 王郷斎先生 著 「意拳論」 より4回に渡り抜粋・引用します。武道を嗜まれない
方には「神経訓練法要領」と読み替えて頂ければ面白いか?と想います。

一、渾元の争カ

 カの争いは至るところ存在する。四肢百骸、大小の関節など力が争っていない部
位はない。
 虚実、弛緩と緊張とは、実際には力が争っていることである。争わなければ力は
出せない。

 宇宙のなかで力の争いがないところはなく、総じていえば、つまり渾元の争いであ
る。

二、大気の呼応

 大気と人体は呼応の関係にある。動と静はいずれも利用でき、反応がある。站椿
を久しく続けていると、体内が次第に膨張し、大気とのつながりを感じるようになる。
 これは站椿を続けての初歩的な体得と感覚である。将来、この種の力を利用して
敵に打撃をあたえるとすれば、これは発カでもあり、これこそ意拳の独創ともいうべ
きものである。

三、渾重逆体

 すべての部位には隙間がないように思えるが、どこにでも逆に働くカがある。いか
なる角度から打って来られても、まともにあたってくるが、しかし、またまともではな
い。

 これは矛盾が統一して生じた力である。

四、動静は互いに根元がある

 動と静はひとつの全体をつくっており、互いにその根元をもっている。動は即ち静
であり、静は即ち動である。動と静は互いにその根元をもっている。
 弛緩は即ち緊張であり、緊張は即ち弛緩である。どちらも過ぎてはならない。虚
は即ち実であり、実は即ち虚であり、虚実のなかに平衡を得るという。

 つまり、天地には平衡というものは存在しない。どこひとつとっても絶対的な平衡
というものはない、という意味である。暫時的な平衡を制御できる状態が即ち正であ
って、単双、弛緩と緊張、軽重のカと、それに反作用する力は、交錯した複雑な関
係にある。

五、遒と放の本は同じ

 カが強くなければ、出した力は大きくはないから、カは必ず強くなければならず、そ
うしてこそ力は大きくなる。

 力を出すときにはまず強くし、強くするにはまず力を出すことである。

六、有無統一

 有無はひとつのことをいう。ものが存在して初めて、それが存在しないことが予見
できる。有形のものは、最終的に消滅するのである。
 有形の物のなかから、存在しない物を予見するのである。もし存在しなかったら何
が出てくるか知ることはできない。

 総体的にいって、有ればいつか無くなる日がくるのである。

 これは活用すべきであって、人情の道理についても同じことがいえる。尊大ぶって
いる人は他の人から疎まれ、謙虚な人ほど人の尊敬を集め、重視される。この道理
は学術、物質、事柄、人情のすべてにあてはまる。

七、順力逆行

 手を手前に引けば、カは遠くにまで至り、手を前に出せば、力は弱くなる。

八、勾錯交叉

 これにも有形、無形の両面がある。形についていえば、出す手は鋼のやすり、引
きもどす手は鈎のついた竿にたとえることができる。
 (実際には動いていないが)全身に大波がうねっているかのようである。(誰にも見
えないが)全身にカが溢れ、毛髪は矛のよう、腕にはいたるところ刀がついているか
のようである。これについては形容しにくいが、そのなかには精神的な力が存在し
ている。

 無形は即ち一種の意念の仮設であって、本当にそうしてはならない。有意、無意
のあいだには、はっきりした形は見て取れない。
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                     意拳創始者 王郷斎先生

(補足情報)

 「意拳」は「心意六合拳」→「形意拳」を流れとする、「人の心と身体の内の働き」を重視
した武術です(他、「太極拳」・「八卦掌」などが「内家拳」と呼ばれ、その分類に入ってお
ります。)

 ちなみに、その「源流」である「心意六合拳」の名前の由来は

 人の内側にある3つの合(内三合)
 「心」と「意」...何かをしようと思う"動機"とそれを実行に移そうとする"意識"
 「意」と「気」...実行に移そうとする"意識"とそれを受けた神経他の人間の"内的な働き"
 「気」と「力」...人間の"内的な働き"とそれが人体の外へ"表在化"される"表現"・"現象"

 人の外側にある3つの合(外三合)
 「肩と股」、「膝と肘」、「手と足」

 が協調・循環(六合)を「心と意」を以て導いて行く有り様を称し、「意拳」はその流れを
受けております。

 正に「神経訓練法」だと思う春風堂です。
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by cute-qp | 2009-02-03 00:00