道の治療 ~ "自分作り"は"人作り"~ 

 今日は、横田観風先生の著書「経絡流注講義」より引用させて頂きます↓。

 患者の体表面から離して手かざしをしながら横にずらしてゆくと、さまざまな気の
放射が感じられる。
 特に「生きたツボ」の部位では、どリビリと痛く感じたり、あたかも磁石ですいつけ
られるか、逆にはじかれる感じがしたり、熱く、あるいは寒く感じたり等することは、
すでに何度も述べてきた。

 このことから多くのことを学ぶことができる。その中で、一つは、気には量と質の
二面あること。もう一つには、人はだれでも気を放射していること、をとりあげてみ
る。

 我々の感覚受容器は、人体が正常に機能している時には何も感じない様に作ら
れている。
 生命の維持に危険となる何らかの異常が発生した時、これをキャッチし、これに
対処するための情報センサーともいうべきものである。
 それ故、手かざしをした時、他の部分では体温のぬくもり程度がかすかに感じら
れるだけであるのに、「生きたツボ」においては、敷く、そして質的に異常な気の放
射を手掌の受容器で感ずることができるのであろう。

 手かざしをしていると、時として不思議な体験をする。患者が敏感であれば、手
かざしをしているだけで、腹がゴロゴロ鳴っセきたり、気分が良くなってくる場合が
ある。患者の気のめぐりが良くなった訳であろう。

 これは、医者の手掌から気が放射されていることを意味している。

 医者と患者は、互いに気を放射しっつ、同時に気を受けている。即ち、互いに気
を放射している訳である。

 古来の鍼とは、手掌から放射される気を一本の金属の鍼を媒介として、ここに集
束したものに他ならない。
 それ故、医者がどの様な気を放射するかが重要な意味を持つことになる。気は、
生命そのものに直結している故に、医者のあるべき様が問題となる。

 私は、初学者の頃、患者を三人位治療しただけで疲れて寝こんでしまう程であっ
た。
 最初未熟で、時間ばかりかかるからかと思っていたが、技術が上達した後も、し
ばらくの間、癌その他の重病の患者のどリビリと痛い気を受けるとやはり疲れるこ
とが続いた。

 これは、患者からの気の放射が、量的に強く、質的に悪性であるために、医者の
内なる気の状態が乱されたことを意味している。即ち、医者の内なる気が充実して
いないことによる現象に他ならない。

 ここに、鍼が「道」になりうる可能性の一つがある。

 前章で医者の呼吸が重要であると述べておいた。気の充実と呼吸とは密接不離
の関係にある。東洋的には、呼吸といわず息という。
 息は、意気に通ずる。即ち、呼吸によって意識的に気を操作することの意味とな
ろうか。

 東洋的なる「行」法は、すべて「心・息・身の調和」を実現する。

 例えば、私が坐禅をしている時の実感を述べると、まず、身相を調え、数息観に
よって、心をこめた息を調えていると、まず手指が暖かくなり、更に、すぐに息の出
入のたびに、あたかも「フイゴ」の把手を押し引きするたびにコークスが煩をあげる
如き感がし、全身に「真気」が還流し、内なる生命の充実を感じてくる。

 同時に心に浮かび上がる想念も消え、寂とした心の状態になってくる。

 坐禅を修業する時には、下腹丹田に気力を集中させてゆく。同時に、この丹田か
ら全身に気が放射されてゆくから不思議である。実際には、坐禅を開始してまもな
く、心息一如になり、何の意識ももたずに、生命そのものが息になりきり、リズミカル
に息を成してゆく。

 鍼をして疲れるのは、内なる気が充実していないからである。言い換えれば、ちっ
ぼけな己れ自身の気を浪費して治療しているからに他ならない。
 気海丹田への、気の集中と放射が調和した時、ちっぽけな肉体が、全く透明にな
り、大いなる天地自然に融け込み一体となる不思議な体験をする。

 鍼先から気を出そうとするのではなく、大いなる天地自然から絶えず気をもらうと
いうか、丹田に流れ込んできたものが、体内に充実し、その一部が鍼先から溢れ出
してゆく様になれば、疲れることなど無いはずである。

 私は、疲れた時には、坐ることにしている。道の治療とは、大いなるものが、私を
媒介として治している如きものである。

 ↑以上、引用終わり。

 「医療」に関わるものとして、「自分作り」と「人間観察」を大切に思っております。
その形や方法はそれぞれでありましょうが、とても参考になります。

 ちなみに、先日、横田先生の講演会?に行かれた方によると、横田先生の姿勢
はやはり抜群で、全部「観えて」事に当たられているとの事でした。
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by cute-qp | 2009-01-11 00:00 | 温故知新