すべては自ら確かめよ ~己こそ己の寄る辺~

 年末特集最終日は A・スマナサーラ長老の根本仏教の講義より引用・掲載させ
て頂きます。少々、長い引用ですがお付き合い下さい↓。

 お釈迦さまの教えと言われているものはいまでもたくさん遺(のこ)されています。
しかし、お話したとおり、どれがほんとうの教えなのか皆目分からなくなってきてし
まったのが現状です。
 ここで、お釈迦さまの教えの真実を理解するために恰好(かっこう)の教科書『カ
ーラーマ経』というお経がありますので、それをご紹介しましょう。

 このお経は「自ら確かめよ」という題です。

 「このように私は聞いた。あるとき、世尊(お釈迦さま)はカーラーマ族の町に入
られた。そこでカーラーマ族の人々は、世尊にこのように訊ねた。

 『世尊よ、ある沙門、バラモンたちがやってきて、彼らは自分の説だけを正しい
と言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。さらにあるとき、
またちがう他の沙門、バラモンたちがやってきて、彼らもまた、自分の説だけが
正しいと言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。
 いったい、だれが誠を語り、だれが偽(いつわ)って語っているのか、という疑い
があります。どうぞ、私たちにだれが正しいのかを教えてください。』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことである。そして、疑
いのあるところに惑(まど)いは起こるものである。
 あなたがたはある説かれたものを真理として受け取るときに、人々の耳に伝え
られるもの、例えば秘伝や呪文(じゅもん)、神の啓示などに頼ってはいけない、
世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない、古くからの言い伝
え、伝説、風説などに頼ってはいけない、自分たちの聖書や教典に書いてあるか
らといって頼ってはいけない、経験によらず頭のなかの理性だけで考えることに
頼ってはいけない、理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけな
い、人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼って
はいけない、自分の見方に(見に合っているからというようなことだけで納得して
はいけない、説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない
、説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、

 カーラーマ族の人々よ、もしあなたがたが、これは不善である、これは咎を持
っている、これは智者によって非難されている、これらの行為は不利益と苦を招
くものであると、自分自身で知るならば、あなたがたはそれらのことを捨て去る
べきである。』

 『カーラーマ族の人々よ、これをどう考えるか。人の心のうちに起こるむさぼり
は、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

 『世尊よ、不利益を起こします』

 『カーラーマ族の人々よ、そのむさぼりをもつ人は、むさぼりによって打ち負か
され、心を占められたものであって、そのむさぼりの心はやがては命あるものを
害ない、与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽って語り、他人にも
そのように勧める。およそこのことが、その人に長いあいだの不利益と苦しみを
もたらすものである』

 『世尊よ、その通りでございます』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。人の心のうちに
起こる怒りは、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

 『世尊よ、不利益を起こします』

 『カーラーマ族の人々よ、その怒りを持つ人は、怒りによって打ち負かされ、
心を占められたものであって、その怒りの心はやがては命あるものを害ない、
与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽って語り、他人にもそのよう
に勧める。およそこのことが、その人に長いあいだの不利益と苦しみをもたらす
ものである』

 『世尊よ、その通りでございます』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。正しいことを知ら
ない愚かな心は、利益を起こすか、それとも不利益を起こすか』

 『世尊よ、不利益を起こします』

 『カーラーマ族の人々よ、正しいことを知らないその愚かな心を持つ人は、愚
かさによって打ち負かされ、心を占(し)められたものであって、その愚かな心は
やがて命あるものを害ない、与えられていないものを取り、他人の妻と通じ、偽
って語り、他人にもそのように勧める。およそこのことが、その人に長いあいだ
の不利益と苦しみをもたらすものである』

 『世尊よ、その通りでございます』

 『カーラーマ族の人々よ、あなたがたはこれをどう考えるか。これらのことは善
か、それとも不善か』

 『世尊よ、不善です』

 『これらのことがらは、不善である。これらのことがらは、咎(とが)を持ってい
る、これらのことがらは智者によって非難されている。これらのことがらを行う
ならば、自分自身に不利益と苦しみを招くと自分自身で知るならば、聞き知った
ことや、伝え承けたことなどは、すべて捨て去るべきであろう』

 『また、カーラーマ族の人々よ、そのむさぼり、怒り、愚かさを持たない人は、
むさぼりによって打ち負かされることなく、心占(し)められることのないものであ
り、命あるものを害なうことなく、与えられていないものを取ることもなく、他人の
妻と通じることなく、偽って語ることなく、他人にもそのように勧める。およそその
ことが、長いあいだその人に、利益と幸福とをもたらすものである』 」

 このカーラーマ教はものを信じる根拠をすべて否定しているものである。

 人は何かを信じる場合に権威あるものを根拠として、その証拠であるとするくせ
がある。
 例えば、この経典は歴史があり古いものだから正しいといった偏見や、この
経典を持っているだけで功徳があるとまで信じている人などに対して、お釈迦さ
まは教典に書かれているからといって即正しいということはないと言っておられ
ます。 
 たしかに今ではお釈迦さまが遣したといわれる言葉はたくさんあり、どれが本
当のものなのかまったく分からなくなっていて、まさに教典に頼るなと言われた
言葉どおりになっているのです。

 また、もともと持っている見解(見)に頼るなとも言っておられます。

 日本には日本的な考え方がありアメリカにはアメリカ独自の風習や論理の
組み立て方があるということです。

 ひとはとかくいままで経験したことや古くからある考え方やものの見方に捉わ
れやすく、そのために真実というものが掴みにくくなっているのです。

 また偉い人や肩書の立派な人の言うことは何となく信じてしまうものですが、
外見だけでものごとを判断するのは危険であるとも教えます。
 例えキリストであろうと、マホメットであろうと釈迦自身であろうと、自分たちの
師に頼ってはいけないというのです。
 どうですか、私たちが日頃何気なく行っている行為に潜む過信という落とし穴
を見事に言い当てられているのです。
 私たちは、大勢の人が信用しているからといって、教典に書かれてあるから
とただそれだけのことで、すぐそういうものを信じ、頼ってしまいがちです。
 お釈迦さまは人間が欲望によって考えたことはいずれも間違って伝わってい
くだろうことを看破され、あくまでも自分で確かめよ、と言っているのです。

 このように善、不善は自らが知るものであり、自らが確かめられるものである
と、カーラーマ経で教えているのです。本に書かれているとか、伝統があるとか
、偉い先生の教えといっても、それが真実であるとは限りません。

 あくまでも自分で確かめ、実証を得た上で行うべきであると、仏教は教えてい
るのです。

 仏教には信仰はありません。信仰ではなく、聞いたこと、見たこと、学んだこ
とは自らが自分でそれを実践し、それによって自分の心からの欲望のむさぼり
や、怒りの心が消えてなくなっていくことを体験し、それを実証していくことこそ
が必要なのです。

 仏教には欲望を満足させるものは一切ありません。自分ですべてのことを実
践することによってそのことを確かめてください。その結果、必ず信仰のような
曖昧模糊としたものではなく智慧による確信に変えていくのです。

 ↑以上、引用終わり。

 昔、K野先生にお釈迦様の「法句経」を頂いた事があります。

 その中に「己こそ己の寄る辺」との一節がありました。

 そこが「春風堂」の「起点」となっております。
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by cute-qp | 2008-12-28 00:00 | 温故知新