時計の歌 より 中心

 年末特集第4弾は 野口昭子:著 「時計の歌」 全生社より引用・ご紹介致します↓。

 「どんな石でも、石をじっと見ると、石の中心が見えます。中心が分かれば、余分
な力を使わずに、石を動かせます」寺石さんは私の質問にこう答えた。
 
 寺石さんは京都和室の庭を造った庭師である。今、箱根記念館の庭を造り直して
くれているが、三日間で、庭の風情が全く変わり、遠い金時山まで、我が庭に入っ
てきたような気がする。

 私が驚いたのは、五人で裏山の林の奥から一日で二トン前後の石を三つもさんま
たで掘り出し、最も原始的なコロビキの方法で、裏庭と前庭に運び入れてしまったこ
とだ。
 大きな石が、山林を縫うように、スルスルと動いてゆくのを、私は目をみはる思い
で見ていた。

 寺石さんが遠慮深げに語るところによれば、石の中心が見えるようになるには、石
を扱い出してから十年はかかるという。

 私はふと自分が如何にうかつに物を持ち上げていたかを思った。そこで傍らのポッ
トを持ち上げて見た。同じポットでも、手をかける位置で持ち上げる重さの感じが違う。

 一番軽く安定した感じがするのは、やはり重量が平衡する一点なのだ。

 大発見とばかり得意になってオタカ (四男)に言うと、「ママ、今ごろそんなことに
気がついた?」と言われてしまった。

 しかし石の中心が見えても、動かす人の腰がきまっていなければ、石は自由にな
らない。

 整体操法でも、お茶の点前でも、又どんな技芸でも、腰がきまって中心で動作して
いる人の姿は、自然で美しい。余分な力を使わないからだ。

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 この間、何十年ぶりかで誘われて歌舞伎を見たが、ある俳優が舞台の中央で、み
えをきる型がきまらないのが気になった。

 動作の最後が、ピタッと止まらないのである。

 だから止まることによって生きる裡なる動きや、空間が生きない。先生(野口晴
哉先生)が、「操法の上手下手は、その人の坐る位置と、構えを見ただけで分か
る」と言っていたが、やはり中心のあり方を見ていたのかもしれない。

 最近、新札が出て、その銅板を彫る名人といわれる押切さんの詰が、朝日新聞
に出ていた。かつては「聖徳太子」と「博文」を、今回は「諭吉」と「漱石」を彫ったと
いう。

 銅板に彫刻刀(ピュラン)で、一ミリの中に十二、三本の線を入れてゆくような精
度を要求される彫刻を、どうやって彫ってゆくのかという質問に、「四、五キロの物
を持ち上げる気持で腹に力を入れ、息を止める(「保息」だと思います:管理人)。
 そして静かに、静かに息を吐きながら一点に神経を集中する」と押切さんは答え
ている。

 やはり彼自身の中心が下腹にきまっているからこそ、精神集中の持続が出来る
のではないだろうか。

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 私が自分に中心があることを自覚したのは、もう十何年も前になるだろうか。排泄
の鈍りから、全身が象のようにむくんで、生死の境をさまよった時だった。

 コマが勢いのあるうちは、まるで静止しているが如く立って廻っているが、一旦勢
いがなくなると、中心がフラフラして平衡を失い、遂に倒れてしまう。
 それと全く同じように立てなくなり、ピノキオみたいな手と足と胴が、バラバラな感
じになって寝込んでしまった。
 そんな状態が二カ月ほどつづいたろうか、或る時、そのバラバラになった手足が
す-っと吸いよせられるように一つにまとまった感じがして、中心に息が深く入って
来たのである。

 私は今でも、その瞬間から自分が生きる方向に向ったような気がしている。

 人間の無意動作を丁寧に観察していた先生は、個人個人にょって動作の中心が
腰椎一番にある人、二番にある人、四番にある人というように、それぞれ違うことか
ら、体癖ということを追求して行った。

 従って、客観的に見れば、私のような上下型の人間は、腰推一番に力が集って
動作している時は中心が安定して全力を出し易いというが、私自身の感覚では、
あの時、す-っと一つにまとまった感じを、体が未だに記憶しているのだろう、中心
というとその感じが蘇ってくる。

 すると、しみじみと″生きているんだ″という実感が湧いてきて、これだけでもう
何も要らないというような気になってしまうから不思議である。
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by cute-qp | 2008-12-27 00:00